古典が照らすのは人物の内心よりも関係の変化である
張又俠を、そのまま韓信に重ねることはできない。現代中国軍と古代の軍では、制度も権限の成り立ちも違う。張が台湾への作戦に反対したから排除されたと断定できる証拠もない。
古典から引き出せるのは、調べるべき問いである。指導者を支えるために集めた権限は、いつ指導者が警戒する権限へ変わるのか。組織を動かすための人脈は、どの時点で派閥とみなされるのか。そして、その人脈を切った後、組織を動かす知識と信頼は、誰が引き継ぐのか。
本書第2章「戦争」では、トゥキディデスの『戦史』を手がかりに、恐怖、名誉、利益という動因を考えている。国家間の競争を読むとき、相手への恐怖が重要になる。同じように、組織の内部で指導者が何を恐れているのかも、その組織の動きを左右する。
ただし、習の内心を古典によって言い当てることはできない。今回の公式発表が、腐敗とともに政治的な不忠実を問題にしていることを出発点に、統制を強める行動が、軍の能力にどう作用するかを見ていくのである。
軍を強くする反腐敗と判断を鈍らせる恐怖
専門家も、この2つの作用を分けている。9月23日のロイター報道で、トニー・ブレア研究所のルビー・オスマンは、日常の活動が一定程度維持されても、上層部の大きな混乱は台湾有事のような複雑な作戦に影響し得ると指摘した。同時に同氏は、習が短期の混乱を、長期の規律と戦闘即応力のために払う価値のある代償と見ているとも述べている。天下を治める段階に入った劉邦が、韓信の軍権を取り上げた判断とも重なる見方である。粛清は、何かを失う行動であると同時に、何かを得ようとする行動でもある。
同じ報道で、ジャーマン・マーシャル財団のボニー・グレイザーは、統合参謀部や戦区などを通じて命令は実行できる一方、習が一人で判断する場面が増える可能性に言及している。命令が通る仕組みが残っていることと、最高指導者に十分な助言が届くことは、分けて見る必要がある。

