総帥が73年前に掲げた一大プロジェクト

多摩田園都市の人気が手堅いのは東急が同地に込めた理念、そして理念を体現するために積極的に施策を打ち出していることなど理由は多々ある。それ以上に東急のブランド戦略が成功したことが大きい。身も蓋もない言い方をすれば、多摩田園都市は明らかにイメージで選ばれ、そして支持されているのだ。

多摩田園都市は東急総帥・五島慶太が1953年に発表した城西南地区開発趣意書を基礎とした都市開発のプロジェクトで、同プロジェクトは東急グループ全体が一丸となって誕生・開発・発展に邁進した。

五島は1959年に没しているので多摩田園都市の行く末を見届けることはできなかったが、その遺志は東急グループ全体が引き継いでいく。東急が一丸となった原動力は何だったのか? それを簡単に言い表せば、本体の鉄道事業を繁栄させるためのプロジェクトということになる。

東急は長年にわたって鉄道会社として親しまれてきたが、その源流は渋沢栄一が良質な住宅地を開発するために設立した田園都市株式会社の鉄道部門にある。

会社員向けに計画された「田園調布」

渋沢が興した田園都市株式会社は昭和期に高級住宅街の代名詞的存在となった田園調布を手がけた企業だが、開発当初の田園調布は富裕層ではなく企業に勤めるサラリーマンをターゲットにしていた。

田園調布
写真撮影=小川裕夫
渋沢栄一が築いた田園調布は高級住宅街の代名詞的な存在でもあり、東急の都市開発の原点でもある(2021年9月)

サラリーマンをターゲットに高級住宅街を計画したことに違和感を抱くかもしれないが、戦前まで企業に勤めるサラリーマンは世間的にも少数で、月給という形で安定した収入を得られる世帯をターゲットに住宅を販売することは斬新かつ堅実なビジネスだった。

多くの人たちが農業や町工場・個人商店で生計を立て、職住同一もしくは職住近接といったライフスタイルが築かれていた。数少ないサラリーマンは、東京・丸の内や大手町に並ぶオフィスに通勤していたが、社会全体に通勤という概念は浸透していなかった。

サラリーマンは丸の内・大手町まで通勤しなければならず、田園調布から徒歩で通勤することはできない。そのために鉄道という移動手段を必要とした。

田園都市株式会社は住宅販売を目的に鉄道部門を設立し、後に目黒蒲田電鉄として独立・分離。それが、やがて東急電鉄となる。