なぜ「わかったつもり」になるのか
ではなぜ、フランスの暴動を「移民」や「民度」で理解しようとするのか。
この短いコラムのなかだけでも、フランスには長い歴史や経緯があり、それが日本とは大きく違うという点(だけ)は説明できる。それなのに、複雑な背景を持つ出来事を、単純(に見える)単語にまとめる=帰属処理をする。わかったような気分に浸るのは、人間が情報を処理するにあたっての傾向にほかならない。
それでも、「移民」や「民度」で説明しようとする、理解しようとする空気は、そのまま移民の(慎重な)受け入れへと展開するのではないか。
もちろんここで、「だから排外主義はいけない」などとお説教を垂れるつもりは、まったくない。それよりも、日本のSNSの雰囲気が、フランス固有の事情を学ぼうとするよりも、自国の現在や将来への茫漠とした不安をなんとなく解消したつもりにできる道具として使われているように見える。その風潮が気になる。
私は、あくまでも日本社会を対象にする社会学者であり、フランスとのかかわりは“ないわけではない”程度にとどまる。私もまた、実際にはフランスを見ようとして、日本を見ている(つもりになっている)だけなのかもしれない。
「敵の血」が問いかけるもの
ラ・マルセイエーズの「不潔な(敵の)血」という歌詞を思い出そう。自由を守るために戦う者たち=私たちが、敵の血を畑に流させる。その暴力を正義と呼んで歌い継いできた国で、今回もまた街頭に人々が出て、そして、血が流れた。
暴動で略奪や破壊を行ったものたちにとっては警察官や憲兵が「敵」であり、政府にとっては逆である。その原因は「移民」でも「民度」でもない。フランスでの騒乱の背後には、自由と暴力が切り離せないかたちで結びついてきた歴史と、それぞれの時代に異なる不満が街頭へと人々を駆り立てた現実がある。
そしてそれを「移民」や「民度」という短いことばで片付けたくなる私たち日本の側にも、問い直すべき何かがある。フランスの国歌を歌いながら育った者として、そう思わずにはいられない。
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