山県有朋と寺内正毅を名指しで批判
ただ、いかにも司馬らしく、まずは穏当に「乃木軍のみが責められない」といい、大要塞についての陸軍の認識が「疎漏」であり、旅順攻略の位置付けが軽く、「能力的配慮よりも派閥的配慮」を優先したことを指摘します。
乃木の人事は同じ長州閥の山県有朋のなせる業ですが、そのゆえに参謀長は薩摩閥からということになり、伊地知が組み合わされます。
もともと、司馬は、乃木の能力も伊地知の作戦能力も評価しておらず、この人事の乃木にとっての「不幸」をいい、あわせて、この藩閥人事を遂行した山県と寺内正毅を追及します――旅順の攻防は、日本の敗北の危機を持続的に作り出してしまったが、「この責任をもっとも大きく負わねばならないのは、陸相の寺内と参謀総長の山県であろう」。
司馬が旅順の戦闘を記述した三つの章――「旅順」「旅順総攻撃」「二〇三高地」のなかで、乃木/伊地知に対する批判はしだいに怒りに変わり、言葉もだんだん強くなり、しまいには罵倒に近い言辞までが連ねられますが、しばらくは日本陸軍批判に比重がありました。
変わった海軍と、変わらない陸軍
司馬の批判は、日本陸軍がもつ「技術軽視」に向けられ、かつ、「技術面の二流性」を「勇気と肉弾」をもって補おうとする意識が「痼癖」となった昭和期の軍部を念頭においてのものですが(「昭和期の軍人とはまったく別国の別人種のよう」と繰り返しいいます)、同時に海軍との比較による批判もおこないます。
すなわち、日本海軍にはオーナーとしての山本権兵衛がおり、「日本海軍はどうあるべきか」ということを考え、体質から兵器まで「一変」させたが、日本陸軍には、そのような人物が不在で「軍組織が官僚化」し、「官僚秩序が老化」したというのです。
この議論は、山県の「保守的性格」によって、日本陸軍は「新生改革」の時期をもたずに藩閥人事がつづけられ、「無能者」でも栄達できるという「奇妙な世界」をつくりだしてしまった。そして日本陸軍は〈近代〉への対応を遅らせ、いたずらな精神主義を強調したということが、前提として述べられています。
同時に、司馬はこの議論を、農業社会/狩猟社会という文明論の地平にも持ち出し、「農の世界には有能無能のせちがらい価値基準はなく」、それがあるのは「機能化」した狩猟社会だといいます。日本は農業国であるが、騎馬民族の系譜を「濃厚」にひいており、能力主義の軍隊組織を受け入れることができたとします。しかるに、乃木/伊地知は「無能」であったのです。

