戦国経済をどう終着させるか

『老害の戦国史』の秀吉の後継者の項で、蒲生氏郷が「徳川家康は秀吉の後継者にはなれない。ケチだからだ」と語ったという『東照宮御実紀』の部分を紹介した。この項目には続きがある。

氏郷は元来豊臣・織田の奢侈をみてきて「天下の主はこのようなもの」と思い誤り、家康公の倹素こそ天運が属することを理解できなかった。氏郷ほどの傑出した人物でさえ、時代の流弊になじんでしまい、その思惟の及ばないとは、なさけないことである。

ずいぶんな言われようだが、これは後世からみた結果論にすぎない。

この蒲生氏郷のエピソードは「あいつぐ戦争好況で成長を続けた戦国経済について、その終着点や収束方法は、蒲生氏郷ほどの慧眼を以てしてもわからなかった」と解釈するのが妥当なところである。

若い世代の武将に与える土地がない

天正19年(1591)秀吉の朝鮮出兵の前線指揮を執ったのは、加藤清正(30歳)、小西行長(年齢不詳・加藤清正と同世代)、黒田長政(24歳)など、多くが「秀吉直属の武将」「若い世代」であることだ。秀吉は毛利輝元や徳川家康などの新参の大名には手厚いが、直属の若い世代に対しては、その功績の割に褒賞を与えきれていない。新参を懐柔するために領地を与えすぎ、直属の若い世代に与える領地が枯渇していたからである。

「秀吉の先見性への期待が過大過ぎた」ことについて、いちばんの理由は、秀吉自身の奇跡といっていい経歴にある。生父の素性さえわからない卑賤の身の上(どの程度「卑賤」だったのかさえわからない身分である)から織田信長の雑人となり、身ひとつで頭角を現して主家をしのぎ、戦国で誰もなし得なかった国内統一を成し遂げ、実力だけで関白になりあがったのだ。「豊臣秀吉に不可能はない」と言って、反論できる者はいない。