「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は戦国最強とされながらも、道半ばでその人生を終えた。小説家の鈴木輝一郎さんは「信玄は47歳で『高齢引きこもり』の状態になり、その結果、2つの大きなミスを犯した」という――。

※本稿は鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。

甲府駅(山梨県甲府市)前の武田信玄公銅像
甲府駅(山梨県甲府市)前の武田信玄公銅像(画像=Nichefinder/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

嫡男義信の謀反で一時的に人間不信に

老害を自覚しにくい要因のうち、最も重要かつ難しいのは「自分の健康状態が悪いという自覚を持つことが難しい」「体力低下を指摘してくれる人間が周囲にいない」ことである。

本稿を読んでいる、そこのあなた。「自分はまだ大丈夫」と思っていないか。

武田信玄は永禄10年(1567)、嫡男義信に自害を命じたあと、一時的に人間不信に陥った。『甲陽軍鑑』から引用しよう。

信玄公は用心のためか、ご閑所(トイレ)を京間の六畳敷きにして畳を敷き、水を引いて便を流す仕組みをつくって香をたいた。そこで近習の者を一人だけ取次役にして、国内諸方からあげられる各種上申書などを決裁なされた。

嫡男義信に自害を命じたのは武田信玄が47歳のときで、戦国では老人の世代である。これとほぼ同じ時期に尾張国・織田信長が信玄の隣国・美濃を攻略(永禄10年、1567)し、織田信長は足利義昭を奉じて中原の覇者となった(永禄11年、1568)。

自分が公私で身辺があわただしいときに、ある日突然あらわれた若者が(織田信長はこのときすでに若者ではなかったが)、さっさと自分を追い越してゆくときの辛さは、読者諸氏も経験があるだろう。これらメンタル面での衝撃が体調におおきく作用するのは、ご自身の胸や胃や肛門や定期検診の診断票に手をあててよく考えれば、明白ではないか。