※本稿は、鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。
海外進出は「新規事業の開拓」だった
豊臣秀吉晩年最大の老害・失策といったら、議論の余地なく2度にわたる朝鮮出兵であろう。意外と知られていないので、ざっと復習しておく。
豊臣秀吉の朝鮮出兵、「文禄・慶長の役」とは、文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけ、豊臣秀吉が明国(中国)征服を目指して朝鮮に出兵して起こした戦争である。天正20年・文禄元年(1592)、豊臣秀吉は16万の兵力を朝鮮半島に上陸させ(動員したのは50万ともいわれる)、わずか2カ月ほどで朝鮮の首都・漢城(ソウル)を陥落した。
朝鮮王は宗主国・明国に出兵を要請し、明軍は出陣、朝鮮半島を南下して日本軍を圧迫したものの戦線は膠着。文禄5年・慶長元年(1596)、和平交渉が決裂し、豊臣秀吉は慶長2年(1597)に14万を再度派兵。翌年・慶長3年(1598)、秀吉の死去にともない撤兵し、終結した。
秀吉の朝鮮出兵について、心身の健康面や判断力の低下などのアプローチもあるが、本稿では「老害による新規事業の参入と失敗」という側面に的を絞って解説してゆこう。忘れられがちだが、日本国内を統一したあとの豊臣秀吉にとって、海外進出は「新規事業の開拓」なのだ。
秀吉はいつ朝鮮出兵を決断したのか
まず「豊臣秀吉がそもそも朝鮮に出兵しようと考えたのは、いつか」をチェックすることが重要である。現在のところ、天正12年(1584)、9月3日、左記の通り、家臣・一柳直末宛の朱印状のなかで言及されているのが初出だ。
秀吉、日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候心に候歟(崔官『文禄・慶長の役』講談社)
秀吉48歳のときだ。これを大言壮語と笑うのは間違いである。秀吉はこのとき四国を制圧し、10万の大軍勢を動員して徳川家康を支配下においた状態である。心身ともに充実し、関白に任官したことによって、全国統一が現実的になってきた。「その後」を視野に入れる必要が秀吉には出てきたわけだ。
