出兵を止められなかった2つの理由
天正15年(1587)に秀吉は九州を制圧。このとき朝鮮と日本の外交を担う対馬国・宗氏が秀吉に臣従し、朝鮮側との交渉のパイプができた。
その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉は20万におよぶ巨大な軍勢をもって関東・小田原城を攻めおとすとともに奥羽諸州の臣従に成功し、豊臣秀吉の天下統一が完成した。すなわち、数十万を超える戦国武将たちが、日本国内で、働く場がなくなった、ということだ。
それでは、秀吉はいつ正式決定したか。秀吉は天正19年(1591)8月23日、「唐入り(明出兵)」を発表した。このとき秀吉には朝鮮半島の攻略は念頭にない。豊臣秀吉の朝鮮出兵を「秀吉最大の愚行」と断じるのはたやすい。しかし重要なことが忘れられている。「なぜ誰も秀吉の朝鮮出兵を止められなかったのか」である。
考えられるのはおもに二つ。その一。若い世代が望んでいた。その二。秀吉の先見性への期待が過大過ぎた。
「勝ち取る土地がなくなる」未曾有の事態
「若い世代が望んでいたから」という事情について秀吉の老害にするのは酷なように見える。しかし考えかたをかえて見てみよう。「時代が変化したことを、秀吉は理解できなかった。そして若い世代を納得させられなかった」ことが老害である。
戦国時代の合戦は、ほとんどが経済行為である。現代でいうM&Aで、敵対する勢力と競合し、勝利し、吸収合併して経営権を奪う。現代の企業合併と異なるのは、奪取の対象が「企業」ではなく「土地」だということだ。織田信長が地方の豪族から出発して尾張・美濃や畿内を併合したときとは、決定的に異なる事情がある。経済基盤を「土地」にした場合、それは有限だということだ。「勝ち取る土地がなくなる」とは、戦国武将のほとんどが想像していなかった。

