会社にも国境にも縛られない女優だった

昭和を代表する大女優、岸惠子さんが8月7日、老衰で亡くなった。93歳だった。私は年齢が10歳下だが、同じ町内で暮らしたご近所さんで、半世紀以上にわたる腐れ縁の仲だった。私しか知らない素顔も含め、戦後日本の女性像をアップデートしていった彼女の足跡を記録にとどめておきたい。

出会いはよく覚えていない。私は横浜の白楽に、会社に勤めて10年経つくらいまで住んでいた。戦後は白幡池のまわりに野山が残り、うさぎを捕まえて遊んだものである。白幡池の向こうには小高い丘があり、頂上の教会の横に瀟洒な邸宅が立っていた。それが岸さんのお宅である。野山を駆け回りながら、「お城みたいな家だなあ」と眺めていただけである。

岸さんは県内屈指の名門女学校、神奈川県立横浜第一高等女学校(現横浜平沼高校)に通う才女だった。高校在学中から松竹大船撮影所に出入りするうちにスカウトされ、卒業後に女優としてデビューした。ちなみに、ご近所さんとしては岸さんとも仲が良かった女優の草笛光子さんがいる。

女優としての活躍は目覚ましかった。すぐに松竹の看板女優になり、映画『君の名は』では岸さん演じる主人公・真知子のストールの巻き方を若い女性がこぞって真似をして、社会現象になった。まさに国民的女優である。

岸さんはただの銀幕スターではなかった。当時は映画会社の力が強く、俳優は自由に作品を選べなかった。それに反発して、久我美子さん、有馬稲子さんと女優3人で『にんじんくらぶ』を設立した。

海外旅行が珍しかった時代に、海を越えて活躍した点も常識を超えていた。岸さんのもとには海外からオファーが舞い込むようになり、その中の一つ、フランスの映画監督イヴ・シャンピの作品に主演級で出演。それが縁になって監督と結婚して拠点をパリに移した。日本での活動も続けていて時折帰国していたので、「空飛ぶマダム」の異名を取った。帰国のたびに会って食事するようになったのは、私がコンサルタントになって世界を飛び回るようになってからである。同じ白楽の出で、ともに国際感覚を持っていたことから自然に意気投合した。

人を平気で振り回すが頼めば一肌脱いでくれた

仲が良いといっても、実態は私がアゴで使われているようなものだった。

よく覚えているのは、岸さんの一人娘、デルフィーヌの捜索依頼である。デルフィーヌはシャンピ監督との一粒種で、離婚後は岸さんがパリで育てていた。母親は情熱的なところがあったが、デルフィーヌも負けず劣らず直情的。男性と恋に落ちると、家を飛び出てついていく駆け落ち名人だった。

ある日、パリの岸さんから連絡が届いた。デルフィーヌが彼についてアメリカに旅立ったが、娘は観光ビザしか持っていない。あなたはアメリカに知り合いが多いから、就労ビザ取得のために、雇ってくれる会社を紹介しろ、という話だった。

それくらいならわけはない。すぐ対応してデルフィーヌをある会社の社員にした。厄介事が片づいたと思っていたら、しばらくののちに岸さんからまた連絡があった。こんどは「ロスのミュージシャンと駆け落ちして連絡がつかなくなったから搜して」というのだ。私も探偵のまねごとをするほど暇ではない。あきらめてくれないかと返事をしないでいたら、ある朝、電話が直接かかってきた。「今、ロスの空港にいる。迎えに来て」。さすがにこれは無視できない。結局、降参して空港まで車を走らせることになった。

(構成=村上 敬 写真=時事通信フォト)

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