自分の死後の混乱を顧慮していない
これでは「武田勝頼は後継者として無能」と言ったも同然である。自分の死後の混乱についてまったく顧慮していない。武田信玄が、武田勝頼の何を疑っていたのかは不明である。勝頼の、資質なのか、忠誠心なのか、それとも武田信玄自身が実父・武田信虎を追放した経験のフラッシュバックからくるものなのか、これらのいずれか、あるいは全部なのか。
武田信玄が後継者問題について何を考えていたのかはわからない。しかし、歴史を考える上で最も重要なことがある。「何を考えているのかわからない場合、何も考えていない」ことである。
体力が衰えているのに現場で大軍を指揮
第2の自分の健康への過信による判断ミスとは、「足利義昭に呼応して出兵したとき、信玄本人が出陣したこと」である。
繰り返す、武田信玄本人が、三河出陣で陣頭指揮をとったのは、明らかに武田信玄の判断ミスである。書類上で完璧な作戦を立て、脳内で完璧な行動の構想を立てたが、自分の健康を計算にいれていなかった。いわゆる「ワシはまだまだやれる」と錯覚してしまうアレだ。
武田信玄は、15代将軍・足利義昭の「織田信長を攻めおとせ」との命令に呼応して、東海道を西にのぼった。武田信玄が率いた兵数については、2万7000から4万まで諸説ある。けれども、どの説をとろうとも、武田信玄にとって空前の規模であることにかわりはない。いうまでもないが、合戦・戦争は、時代を問わずハードワークである。合戦・戦争は事前の準備がほとんどで、しかも大規模な事業には膨大な間接業務が必要である。
戦国時代、人口が2万を超える都市は数えるほどしかなかった。2万を超える大軍を動かすということは、大都市を、そのままうんこらせと移動させるようなものなのだ。日本脳炎やマラリアの存在どころか、虫刺されや破傷風でさえ命にかかわる時代である。将兵の怪我や病気などを最小限に抑えて戦場に向かわせるだけでも大仕事なのだ。

