合戦準備の作業量は膨大
読者諸氏は、結婚式や葬式(いまはどちらも小規模なものになってしまったが)、忘年会や新年会や社員旅行の幹事などの経験を思い出していただきたい。棺桶や読経の僧侶の手配のみならず、遺影の選定やら並べる菊の種類から、通夜や本葬の弁当の数や種類を決めたり、参列者の手土産に清めの塩をいれるかどうかまで、うんざりするほどの決めごとがあったであろう。
戦国の合戦準備とは、これに加えて移動中の食事の手配や排泄場の段取り、宿舎の手配、健康管理、従軍している将兵の綱紀粛正などが加わる。しかもこれらの会計管理と決裁と伝達を、パソコンどころか電卓も――いや、ソロバンさえもなく、紙と筆と人力で通達してゆくのだ。
百歩譲って書面での決裁や伝達が正常にできていたとしよう。だが、脳内で戦場を描いて決断することと、実際に戦場に「物理的に」出ることは、まったく別の問題が存在する。体力だ。
武田信玄の晩年最大の判断ミスは、「みずから前線に出て指揮するだけの体力がある」と思い違いしたことにある。戦国武将、まして武田信玄が動員した規模の戦闘で、総大将が乗馬して戦場を駆け回る局面は例外の部類にはいる。武田信玄も本陣で泰然と構えて全軍を指揮するタイプで、運動量はさほどではないように「見える」。問題は「移動にともなう体力の消耗」である。馬で移動するにせよ、足腰を酷使するのだ。
「老化は足腰からくる」のは、現代では常識である。また、史料を点検するかぎり、武田信玄が鷹狩りや日常的な乗馬など、アウトドアな健康管理に留意した様子はうかがえない。数年にわたる高齢引きこもりは、深刻な運動不足をひきおこし、その結果、衰えはじめた武田信玄の肉体を、一気にむしばんだわけだ。
こうして武田信玄の健康状態は上洛途上で急激に悪化した。『甲陽軍鑑』から。
(元亀4年・1573)4月11日未刻(午後2時ごろ)から、信玄公の御体調は悪化なさり、脈も異様に早く打たれるようになった。また、12の夜、亥刻(午後10時ごろ)、口中にはくさ(口腔内の臭いできもの・膿栓)ができ、歯が五つ六つ抜け、そこから弱られた。
