少年期のままのメンタリティで大人に
話を本題に戻そう。
織田信長は少年期、近隣のガキたちと「殴り殴られ蹴り蹴られ」という日々を送ってきた。
そのままのメンタリティで成人したことは、明らかである。織田信長は家臣をすぐに罵倒し、手をあげた。
明智光秀のマゲを摑んで欄干に叩きつけたエピソードはよく知られている。本能寺の変の直前、徳川家康の目の前で「手を抜きおって!」と激怒して能楽師(『梅若太夫』と名前まで判明している)を殴りまくった話は『信長公記』巻十五にも明記されている。
馬糞まみれの餅を近習に食わせる
岡谷繁実の『名将言行録』には以下のエピソードが残されている。時期は不明だが大坂・石山本願寺一向一揆の攻略時期で、高野攻めのすこし前なので、天正5年(1577)から天正8年(1580)の間で、織田信長が合戦の前線に出た最後期である。
根来衆との対決前、織田信長が根来を通過することになった(このとき、織田は根来とは和睦も敵対もしていない)。
根来衆たちは、とりあえず信長の様子をみようということになり、根来衆の重鎮が「信長は大きなる器量の人(強大だが寛大)」と聞き、できるだけ大きな折(敬意を表するための手土産)を進ずべし」として、大きな折箱を三つほどこしらえて、信長の前に差し出した。
信長は馬に乗ったままこれをみて、「奇特(よい心がけ)な音信(『音信物』の略。訪問および進物の両方を指す)である」と告げて、折箱の蓋を開け、餅を笄(武将が携行した頭皮を搔く道具)でひとつふたつ無造作に突き刺して食べた。
その後、信長は自分の近習たちに「残りはお前らで食え」と地面に撒き散らした。餅は馬糞の上に散乱したのだが、どの信長の家臣たちも馬糞まみれの餅をありがたそうに食した。
これをみた根来衆が「位のある大将と感心せり(よほど力がある大将なのだと驚愕し、恐れた)」となった。
後年、信長が紀伊国を攻める際、根来衆に臣従をもとめたとき、かれらはいずれも信長をおそれ、早期に降伏した。
