謀反だらけの人生、成功例が本能寺の変

ちょっと話が横道にそれるが、すこしがまんしていただきたい。

織田信長が他の戦国武将と大きく異なることのひとつに、「家臣の反乱がやたら多い」ことがあげられる。本能寺の変での明智光秀ばかりが目立つが、柴田勝家や林秀貞(通勝)、佐々成政といった旧臣から、荒木村重や松永久秀といった新参にいたるまで、記録されているものだけでも無数にある。命令違反や怠業なども勘案するとさらに数え切れない。

楊斎延一『本能寺焼討之図』
楊斎延一『本能寺焼討之図』(1896年)(画像=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

もちろん、下剋上の戦国のこととて、家臣が反乱を起こすのは珍しくない。ただし、「家臣の反乱が表に出たときは、主君がその座を追われるとき」なので、「何度も家臣の謀反に遭う」のは珍しい。忘れてならないのは、「本能寺の変は、たまたま明智光秀が成功しただけ」だということだ。

織田信長の家臣の謀反を検証してみると、家督相続のごく初期のものを除いては、そのほとんどが「組織だった謀反というよりも、家臣個人がぎりぎりまで怨恨を我慢し、ある日突然キレる」のが特徴である。明智光秀が本能寺の変を成功させることができたのも、最小限の人員で京都を襲撃した、ごく衝動的なもので、成功させた後に大慌てで同調者を立てようとしたものの、間に合わなかったのは、よく知られるところである。

家臣がキレる=大したことではない?

なぜ織田信長に対しては「何度も家臣が反乱を起こすことができた」のか。それは、織田信長が「謀反や命令違反があっても、許して家臣として重用する」からだ。天正5年(1577)の信長の北陸攻めの際、従軍した羽柴(豊臣)秀吉が信長に無断で戦線を離脱した。もちろん信長は激怒したが、そのわずか2カ月後、何事もなかったかのように信長は秀吉を中国・毛利攻めの主将に配置した。

では、なぜ織田信長は「家臣にしばしばキレられ」、「それでも家臣が戻ってくると重用した」のか。それは「信長自身が『家臣がキレることを大したことだと考えていない』から」だといえる。