ドイツまで軍事費増大に踏み切った
これを見たNATO諸国は大慌てとなり、「アメリカは何かあってもNATOのためには動かないかもしれない」との猜疑心にかられることになりました。ポーランドとバルト三国は「いざロシアが攻めてきた時のために」と対人地雷禁止条約からの脱退を表明し、戦後一貫して軍備増強に慎重だったドイツまでもが軍事費の増大に踏み切り、自動車メーカーのフォルクスワーゲンに至っては戦車工場に転換するとまで言い始めています。仮にロシアが侵攻してきた場合、アメリカ頼みでは国を守れないと感じたためです。
北朝鮮は戦争こそ起こしていませんが、グレイが言うところの「恐怖心」から、国民が飢えてでも軍拡を推進し、ついに核兵器まで開発するに至った。しかし金正恩は「アメリカが怖い」とは言えないので、「米帝に立ち向かう我が国は偉大である」と虚勢を張って名誉を誇張し、「軍事技術によって我が国は栄える」と利益を強調してもいます。これは恐怖心を和らげるために、ことさら名誉や利益を誇張しているとも取れるでしょう。こうした事例を考えると、国家が動くときには、戦争でなくとも恐怖、名誉、利益を強調するものであるとも言えるのかもしれません。
「トゥキディデスの罠」の元ネタ
紀元前5世紀ごろにトゥキディデスが書いた『戦史』では、アテナイとスパルタが戦ったペロポネソス戦争の原因として、グレイが言うところの「恐怖・名誉・利益」に相当する要素に触れています。
人類史上初めての実証的な記述による歴史書と言われる『戦史』は客観的に歴史を叙述することに努めたもので、トゥキディデスはアテナイの将軍でありながら自軍に肩入れすることのないスタンスで『戦史』を綴っています。エーゲ海に覇権を確立したアテナイ(デロス同盟)とスパルタを中心とするペロポネソス同盟国がぶつかることになったのがペロポネソス戦争の原因ですが、ここには「アテナイに支配されるかもしれない」というスパルタの恐怖心があったのでしょう。
ちなみにトゥキディデスは「トゥキディデスの罠」と呼ばれる概念の元ネタを提唱してもいます。21世紀の米中対立を語るうえで使われることの多い概念ですが、これはアメリカの政治学者グレアム・アリソンの造語で「新しい勢力が既存のトップの地位を脅かすときに生じる、自然かつ避けられない混乱」を指します。一方で、紀元前の人物であるトゥキディデスの概念をむやみに現代に持ち込んで一般的な現象であるかのように語るのはおかしいという批判もあります。

