才能が日の目を見ない社会の不条理
私の場合、東北大学等から専任教授の誘いのあった時点では理系学者志望、芸術系志望等の子どもたちの学費で首が回らず断念せざるをえなかったため転身が遅れたという事情はあるものの、これらの同僚たちが相次いで裁判官生活に見切りを付けて弁護士に転身してしまった時には、本当に取り残された感じがしたものだ(なお、この三人は、いずれも、大学でも客員で教えた経験をもつ)。
それでも、裁判官の場合には、踏み切るのは必ずしも容易でないとはいえ、前述のような転身の道があり、つぶしがきくからまだいい。これが行政官僚や企業人であれば、また、学者でも、たとえ優秀であっても、自分の能力を十分に発揮できるような転身の道を探すのはそれほど容易ではないだろうし、村八分やいじめなどにあった場合については、さらに難しくなるだろう。
要するに、裁判官の場合はむしろ特殊なのであって、社会全体としてみるなら、せっかくの才能が埋もれ、日の目を見ないまま終わってしまっている例のほうがずっと多いのではないかと思われるのだ。
社会を停滞させる「才能嫌い」
私が挙げた例は、やや特異なものかもしれない。しかし、日本の組織、社会が、創造性や独創性とともに自分の意見を強くもつような人間を嫌い、その能力を評価しないで埋もれさせてしまう、あるいははじき出す傾向が強いこと自体は、明らかではないかと考える。
そして、そのような事態は、社会の停滞の有力な原因の一つとなっている可能性が高い。
あえて率直にいえば、私は、日本社会では、本当の意味ですぐれた素質や独創性をもった優秀な人間のうち、制度の周辺に追われ、社会に広く散らばっている者の割合が、きわめて高いのではないかと思っている(東大を始めとする中核国立大学の卒業者にも、実をいえば、その例はかなりある)。
そして、もしもそうした人々を的確に拾い上げてその能力を十分に生かすことができれば、それだけで日本の状況は劇的に改善するのではないかとも考えている。
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