秀吉と家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」で、徳川軍に大敗した17歳の武将がいた。秀吉の甥・三好信吉。のちの関白・豊臣秀次だ。秀吉はこの甥に、罵倒を書き連ねた書状を送りつけたとされる。なぜ秀吉はそこまで激しく怒ったのか。書状の文面から浮かび上がる羽柴家の内情を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
大正8(1919)年に復刻された『武家事紀』の叱責状の部分/豊太閤と其家族(歴史講座)より
大正8(1919)年に復刻された『武家事紀』の叱責状の部分/豊太閤と其家族(歴史講座)より(画像=国立国会図書館所蔵)

徳川軍の奇襲を受け、敗走する大失態

天正12(1584)年に羽柴秀吉が若い武将に宛てたとされる、一通の書状がある。内容は、その武将を厳しく叱責したものだ。

同年4月9日、秀吉と徳川家康・織田信雄(信長二男)連合との間で起きた小牧・長久手の戦いの折り、この武将は秀吉軍の別働隊を率いていたが、白山林(尾張旭市と名古屋市守山区一帯)で徳川軍の奇襲を受け敗走した。その結果、別働隊の先頭にいた池田恒興とその長男・元助、森長可らをみすみす死なせてしまう失態を演じた。

問題の書状はその約5カ月後の9月23日付で、このとき両陣営は和平交渉に入っていたが、双方の主張が相容れず、協議はなかなか進展しなかった。敵との話し合いが膠着している状況下だったせいか、文面が妙に苛立っているようにも読める。

一例を紹介したい。

・此日比、秀吉甥子之令覚悟、人にも慮外之躰沙汰之限候

[現代語に書き下し]
最近、秀吉の甥としての覚悟(自覚)に欠け、振る舞いも不届きであると世間で噂されており、言語道断である


・只今のごとく無分別之うつけにて候者(中略)於秀吉非失面目儀候間、手討に可致候

[現代語に書き下し]
今のように分別のないうつけ者のままでいるなら、秀吉が面目を失うことになるため、自ら手討ちにいたす(『武家事紀』)

文中に「秀吉甥子(秀吉の甥)」と書かれているのを見て、察した読者もいるだろう。そう、とがめられている人物は秀吉の姉・ともの子、三好信吉みよしのぶよし――のちの豊臣氏の2代関白・秀次である(本記事では以下基本的に秀次の名で統一する)。

「太平記英勇伝 九十九 豊臣秀次」
「太平記英勇伝 九十九 豊臣秀次」(画像=東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

「秀吉の名声や家名を汚すな」

書状は全五箇条にわたって延々と腹立ちをぶつけた辛辣なもので、前記の2例は五箇条のうちのふたつである。他には、こんな文面も――。

・今迄言葉にも不出、腹中におりこみ候て加遠慮候、能々到分別、諸事にたしなみ在之候

今までは言葉に出さず、心の中にしまい込んで遠慮していたが、これからはよくよく分別を持ち、あらゆる事において慎み深く行動するように


・是以後者、秀吉不致許容

以後、このような失態を秀吉は一切許さない


・はぢの恥にて候之間(中略)秀吉名字を不可残

これ以上ないほど恥ずかしく、秀吉の名声や家名が後世に残らないではないか

まとめると「この愚か者め、おまえは一門の恥だ、これ以上羽柴の名誉を汚すなら、ワシが自ら成敗してくれる」――というわけだ。怒髪天を衝くとは、まさにこうした様子を指すのだろう。