「世間体」が邪魔した葬儀の簡素化
「葬式は、要らない」
実際に葬儀を出した人は、葬儀が終わった後、そんなことを思うことだろう。それも、葬儀がかなり面倒なものだからである。
私が『葬式は、要らない』という本を幻冬舎新書の一冊として刊行したのは、2010年1月のことだった。
それは、ちょうど今日につながる葬儀の簡略化の動きが始まっていた時期にあたる。この本は、それを加速化させる役割を果たしたとも言われた。本は大いに売れ、私にとっては最大のベストセラーになった。直前に葬儀を出した経験を持つ人からは、「葬儀を出す前に読んでいればよかった」とよく言われた。
その頃には、できるだけ葬儀を簡単にしたいと考えている人たちは、かなりいた。ところが、「世間体」というものが邪魔して、それがなかなか実現できなかったのだ。葬儀を簡単なものにしたり、戒名を院号もつかない短いものにしたら、「それでは故人が浮かばれない」と言われかねなかった。今では考えられないことかもしれない。
本のなかでは、今はもう一般化した、家族だけで弔う「家族葬」や、火葬場に直行し、坊さんなどを呼ばない「直葬」について紹介した。
今では家族葬が当たり前になり、直葬は「火葬式」と呼ばれることが多くなった。逆に、一定の数の参列者を呼ぶ葬儀は「一般葬」と称される。本を書いたときには、そんな呼び方はなかった。
要は、簡略化された葬儀が当たり前になり、多くの参列者を呼ぶ葬儀のほうが、特別なものになったのだ。本を出してから15年以上の歳月が流れたが、社会は大きく変わるものである。
葬礼規模を縮小したい「上皇さまの意向」
それにともなって、誰かが亡くなっても、たとえそれが世に知られた著名人、有名人であっても、すぐにはその死が世の中には伝えられなくなった。死は少し時間が経ってから明かされ、「葬儀は身内だけですませた」と報告されるようになってきた。
亡くなる人間が高齢であればあるほど、その傾向は強くなっている。今では80歳代でも十分に元気で活躍している人も多くなったが、90歳を過ぎれば、おのずと社会との関係は切れていく。それを「社会的な死」と捉えるならば、「肉体的な死」の前に、それが訪れる。今や、社会的な死のほうが、肉体的な死よりも重要性を増している。
そうした状況が生まれているなか、驚くべきニュースがもたらされた。
一般の告別式にあたる、上皇の葬礼「葬場殿の儀」の大幅な簡略化が検討されるというのだ(朝日新聞9月2日付)。
このニュースを聞いて、もしかしたら当事者である上皇も、「葬式は、要らない」と考えているのではないかと、私は思った。
