叔父から賜った「秀」は、終わりの始まり
三好時代、秀次は文化的な素養を培った。養父の三好康長が津田宗及の茶会に頻繁に名を連ねており、養子の秀次も顔を出していた。『宗及茶湯日記自会記』に秀次と茶の湯が関わった記録の初出がある。
(天正11年)十月六日 筑州おヰさま孫七郎
「筑州おヰさま」とは「筑前守秀吉の甥」という意味だ。のちに千利休と交流するなど、秀次は茶の湯に傾倒していくが、そうした文化的資質を育んだ原点という意味で、三好時代は幸せなひと時だったかもしれない。
三好の名を使っていたのは、小牧・長久手の戦い(天正12年)の陣立書(部隊の配置や編成を指示した指令文書)に「三好孫七郎」とあるのが最後で、同6月には「羽孫七信吉」と署名した文書があるという(「上坂家文書」)。「羽孫七」は「羽柴孫七郎」のことだ。つまり秀次は、小牧・長久手の戦いの最中に、羽柴に戻ったと考えられる。
さらに名を「秀次」に改名したのが、天正13(1585)年7月とされる(異説もある)。この月、秀吉が関白となっている。秀次は「秀」の字を叔父から賜ったことで、秀吉の後継者候補としての地位を固めていった。
秀吉と秀次には、絆があった――まだ、このときは。秀次が2代関白となるのは6年後の天正19(1591)年12月である。
秀吉はやがてこの甥との関係など、家族をズタズタに引き裂いていく。天正12年の秀次への叱責状は、一族解体の序章だったのかもしれない。
参考図書
・小和田哲男著『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(PHP新書、2002年)
・藤田恒春著『人物叢書 新装版 豊臣秀次』(吉川弘文館、2015年)
・河内将芳編、日本史史料研究会監修『秀吉と豊臣一族研究の最前線』(山川出版社、2025年)
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