秀次しかいなかった羽柴家
この書状は現存していない。現在伝わるのは、延宝元(1673)年に成立した『武家事紀』など、後世の史料に収録された写しと考えられるものである。そのため、文面を天正12年当時の秀吉の言葉と断定するには慎重さが必要だ。
ただ、秀吉と秀次の関係を考えるうえで興味深い記述も多い。特に当時の羽柴家が抱えていた、深刻な懸案事項をあぶり出している。後継者問題である。
書状の一文にこうある。
・御次は病弱候之条、秀吉代をも可作至歟
御次は病弱なので秀吉の代わりが務まるだろうか
御次とは「御次秀勝」――織田信長の四男(または五男ともいう)で、秀吉が養子としてもらい受けていた。秀吉はこの秀勝を喪主として天正10(1582)年10月、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行するなど、羽柴にとって利用価値の高い人材だったが、小牧・長久手の戦いに参加した頃から健康状態が悪化したらしい(『兼見卿記』)。
秀吉は秀勝がもう長くないことを察したのだろう。そこで、彼に代わる存在として、秀次に期待をかけていたと推測できるわけだ。実際、翌年の天正13(1585)年末、秀勝は没してしまう。すでに秀吉の弟・秀長(小一郎)の子だった与一郎も夭折しており、羽柴の後継者の第一候補は秀次だった。
叱責文には羽柴家のこうした内部事情も記されており、だからこそ興味深いのだ。
舅・恒興は討たれ、婿・秀次は逃げ帰った
その頼りにすべき若者が、威信をかけた大事な戦いで大敗を喫した。ましてや秀次が任されたのは、池田恒興、森長可、孫四郎(秀次のこと)、堀秀政、人数二万四〜五千(丹羽長秀宛て秀吉書状より/なお兵数は諸説ある)という大軍勢だった。
池田恒興が「この軍勢で打って出れば勝てる」と献策し、秀次が「大将を仰せつかりたい」と申し出た戦いだったという。恒興と秀次には負けられない戦いだった(現在では秀吉自身が主導した計画だったともみなされている)。
しかし恒興は戦死し、秀次はおめおめと逃げ帰ってきた。
実は秀次は、池田恒興の娘(のちの若政所)を妻としていた。秀吉は本能寺の変後、明智光秀や柴田勝家らの強敵に勝つため、どうしても恒興の力が必要と考えていた。そこで、秀次との政略結婚を成立させ、恒興を自陣営に引き留めたかったのである。
そして秀吉の思惑が功を奏し、羽柴と池田は縁戚関係になった。だからこそ、小牧・長久手の戦いにおいても恒興は織田家の二男・信雄方ではなく、秀吉に与した。反対に家康にとっては大誤算だったはずだ。信雄がいる以上、織田に大恩ある恒興は「我らに味方して当然」と考えていたからだ。
家康は戦前の策謀で遅れをとっていた――それが、いざ戦闘が始まると恒興を討ち取り、秀吉にひと泡吹かせる格好になったのだから、“してやったり”だったろう。
一方、鼻を明かされた秀吉が、「これ以上ないほど恥ずかしい」と思ったとしても不思議ではない。それほど秀吉には、看過できない敗北だった。

