罵倒は期待の裏返しか
とはいえ、このときの秀次は数え年でまだ17歳である。羽柴を背負うという意気込み、武功をあげる強い気持ちを持っていたにせよ、実戦経験が乏しいのは否定できない。
別働隊の大将を拝命したとはいえ、作戦遂行を秀次ひとりが担っていたわけでもない。敗戦の責任をすべて彼に帰するのはおかしいだろう。
前掲の叱責状も、最終的には秀次の今後に期待する、秀吉なりの親心をにおわせている。例えば――。
・委細善浄坊、蜂須賀彦右衛門、両人に申含遣候間、せかれにて候共、其心得専用候
詳しいことは、善浄坊(宮部継潤/後述)と蜂須賀彦右衛門(正勝)の両人に申し含めて遣わした。おまえをせがれのように思ってくれている者たちだから、心得て聞くように
秀吉の側近、宮部継潤と蜂須賀正勝を使者に出したから、よく話を聞くように、と諭している。宮部は秀次のかつての養父だ。叱責文からは、秀次を盛り立てていこうという羽柴の重臣たちの思惑も見て取れるのではないだろうか。
秀吉に“たらい回し”にされた
とはいえ、秀次という人は一貫して秀吉に利用・翻弄される運命にあった。ここでは小牧・長久手の戦いまでの秀次の足跡を追ってみたい。いかに秀吉に都合よく扱われてきたか、わかるはずだ。
秀次の生年は通説では永禄11(1568)年とされているが、同7、8、10年も候補にあり、正確には不明。母は秀吉の姉・とも、父は弥助。幼名は万丸。
元亀3(1572)年、織田信長と敵対していた浅井長政の配下・宮部継潤を調略するため、秀吉が人質に差し出したのが当時4歳の万丸だった。この場面は「豊臣兄弟!」でも、母のともを演じた宮沢エマさんと万丸の別れのシーンが話題を呼んだので、ご記憶の方も多いだろう。
その後、宮部と養子関係を解消し(時期不明)、四国・阿波に地盤を持つ有力武将・三好康長に、再び養子に出された。
三好康長は信長に敵対していた三好氏の一門だったが、天正3(1575)年には信長に降っていた。さらに信長と土佐の長宗我部元親の関係が悪化すると、対元親対策を強化するため、康長とのあいだにより強いパイプを構築する必要が生じた。
そこで秀吉が、秀次を人質に差し出した。秀次は「三好孫七郎信吉」と名を改め、元服と初陣は三好家の養子時代に迎えたと考えられる。
“たらい回し”である。秀吉にとって秀次は、戦略上便利な持ち駒のひとつに過ぎなかった。
なお、「豊臣兄弟!」公式の人物相関図にも「三好信吉」と書かれているため、小牧・長久手の戦いのときはまだ三好姓だった――と、大河ドラマはそのような設定のようである。

