「歌が恩赦を導いた」は学術的にも疑問視
学術研究の分野では、こうした通説はすでに疑問視されている。フィリピン人研究者のアウグスト・デ・ビアナ(サント・トマス大学)は、歌が恩赦を導いたとする見方について「この歌こそが大統領に恩赦を決定させた要因であったと考えられているが、それがキリノの決定の直接的な原因であったという記録は残っていない」と明言する(Augusto V. de Viana, “Ending Hatred and the Start of Healing,” The Asia-Pacific Conference on Security and International Relations 2016)。
永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社選書メチエ、2013年)では、恩赦に至る経緯を渡辺の物語として捉える傾向があるとした上で、フィリピン側の状況を詳しく記している。永井の説によれば、まず冷戦下にあってアメリカが同盟国である日本とフィリピンの対立をよしとしなかったこと。キリノ大統領自身、日本軍によって家族を失ったことを恨みながらも、両国の位置関係からしても、将来的に日本とフィリピンは国益をみすえて経済交流をするだろうと考えているなど、複雑な立場にあったとしている。
つまりは、戦争責任へのわだかまりがありながらも実利を求めなくてはならないゆえに、恩赦は避けられなかったといえる。決して、歌によって一発逆転で状況が変わったわけではないのだ。
それでも、元戦犯105人は無事に帰ってきた
しかし、感情を揺さぶる単純な物語は受けた。そして、その傾向は最近でも続いている。例えば『神戸新聞』2025年10月15日付の記事には、こんな説明がある。
「伝わる」という一語で逃げながら、慰問の「翌年」に恩赦が実現したという時系列だけを残す。美談は悪意なく、善意によって更新され続ける。
それでも、105人は生きて帰ってきた。その事実は変わらない。帰還した元戦犯たちは、酒が進むと皆で「あゝモンテンルパの夜は更けて」を合唱したという。その歌声の意味を、彼らは誰よりも知っていた。歌だけが扉を開けたのではないことも。それでも歌がなければ、あの夜々を生き延びられなかったことも。
美談の陰で奔走した無数の人々の名前は、今も多くの人に知られないままだ。
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