動き始めた戦犯釈放、だがフィリピンは一貫せず

専門家でさえ完全には否定できなかった。それほどモンテンルパが社会に作り出していた「悲劇のロマン」の磁場は強かった……なお、紙面では、この16歳の乙女のシリアスな相談の横の広告が「ステンドグラスのあるナイトクラブ 金馬車 銀座2丁目電車通り 18日にレストランとティールームも開店」である……。

社会現象となるなかで、戦犯問題への社会の関心はより強まっていた。1952年8月、政府はサンフランシスコ平和条約1周年を前に、A級を含むすべての戦犯の釈放・仮出所・減刑を各国に要請している。すでに蒋介石率いる中華民国は日華平和条約を契機に戦犯を釈放、フランスも善処を約束、アメリカも改善に向けて資料提出を求めていた(『読売新聞』1952年8月8日付朝刊)。

しかしフィリピン側の動きは、一貫しなかった。同年11月、死刑囚だった元日本兵2人が突如無罪を言い渡され帰国した。一方でこの時、帰国した二人は「食事が米とイモ、ビーフン中心で栄養失調者が多い」と証言している(『読売新聞』1952年11月4日付朝刊)。後藤牧師が見た「解放的な刑務所」との落差は、待遇が時期や対象によって大きく異なっていたことを示している。

不安な戦犯たち…渡辺の慰問では「君が代に泣いた」

突如釈放される者がいれば、突如処刑される者もいる。フィリピン側の「気まぐれ」とも見える対応が、収容された日本人たちの不安をさらに深めていた。

『読売新聞』1952年11月20日付朝刊では、刑務所の状況をより詳細に報じている。

これによれば、キリノ大統領が平和条約締結を踏まえて釈放を「検討している」一方、当時、リベラル党と議会を二分していたナショナリスタ党は、賠償問題の解決が先であるとしていた。また、刑務所は予算が限られているため、できる限り待遇をよくしているものの、不足分を補うため日本人に限って野菜畑を許可していた。さらに、同じくモンテンルパに収容されているフィリピン人受刑者との間にも、今では恨みはなく平穏になっている、という声を紹介している。

エルピディオ・キリノの肖像写真
エルピディオ・キリノの肖像写真(写真=Philippine Presidential Museum and Library/PD-PhilippinesGov/Wikimedia Commons

こうした中、渡辺がモンテンルパを訪問したのは1952年12月25日のことであった。現在では、このことが美談のクライマックスのように語られるが、前述と同じく地方面のベタ記事扱い。そして新聞の見出しは「あゝモンテンルパの夜は更けて」ではなく「君が代にみんなが泣いた」である(『読売新聞』1952年12月29日付)。なお、記事として扱っている新聞のほうが少ない。