“出口の見えない不安”に苛まれた死刑囚60人

これは、一見人間並みに扱っていると見せて、よりとんでもない地獄だった。普通の日常が続く。その日常の中に、突然「明日、執行」が降ってくる。現に、深夜のうちに14人が連れ出され、絞首台に消えたこともあった。減刑の観測が流れたかと思えば、処刑が行われる。当時収監されていた死刑囚たちは、そろって出口の見えない不安に苛まれていたのだ。

実際、後藤が話を聞いた死刑囚たちは口々に「部下の誰かがフィリピン人を虐殺したのは事実だが、自分は知らなかったと証明してくれる人がいない」「自分が処刑されるのは当然だが、無実の者が随分いる。救う手立てはないだろうか」などと話していたという。

興味深いのは、後藤が話を聞いた死刑囚たちが、誰一人「助命してくれ」とは言わなかったことだ。その背景を、後藤はこう記している。

日本で行われている助命とか減刑運動が、対日感情の悪い比島国民をかえってシゲキするのを知りすぎるほど知っているからだ。(中略)“日本戦犯の死刑囚はたった60人だが比島人を何十万人も殺したではないか……”これが一般比島国民のいつわらない感情なのである。
(同読売新聞)

大統領は減刑・釈放方針に傾いていたか

ようは、誰もが我が身可愛さに将来の友好の障害になることを恐れていたのである。一方で、さらに興味深いのはこの記事が1951年12月の時点で、既にキリノ大統領は減刑・釈放の方針を決めていたと記していることである。キリノ大統領は面会した後藤の手を握り、こう語ったと記事は伝えている。

「戦後すぐに日本人にあったのならかみ殺してしまっただろう、私は妻と三人の娘を日本人に殺されている、しかし今はもううらむこともツミだとも思わなくなった。神が日本と比島を隣り合わせておつくりになったのは仲よくしろとのみこころにちがいないからだ。もし私が日本人を憎んだら比島全国民が日本人をにくむだろう」
(同読売新聞)

この記事の記述を信用するならば、既に釈放は確定していたことになる。

反日感情が根強い国内世論をどう説得するか。賠償交渉が行き詰まる中で、釈放がどう受け取られるか。政治的タイミングをどう見極めるか。キリノが抱えていたのは、感情の葛藤ではなく、政治の問題だったというわけだ。

その「タイミング」を作る力学の一つとして、一つの歌が生まれ、日本中に広まっていくこととなったのである。

今日、この美談の主役として語られる渡辺はま子だが、当時の報道における扱いは、驚くほど小さかった。

1938年に発売された「支那の夜」宣伝用スチールの渡辺はま子
1938年に発売された「支那の夜」宣伝用スチールの渡辺はま子(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons