送還は静かに進んでいた
本当に事態が動いたのは、政府間の交渉が進んでからだった。1953年1月29日、使節団として訪問した衆議院議員の橋本龍伍は司法長官と会談し、「対日平和条約批准後に送還を取り決める」という言葉を引き出している。この時点で死刑囚は51名――少数ずつではあるが、送還はすでに進んでいた(『読売新聞』1953年1月30日付)。
そして1953年6月27日、キリノ大統領はモンテンルパの戦犯全員を特赦することを決定。死刑囚は終身刑として巣鴨へ移送、終身刑以下は釈放すると布告した(『読売新聞』1953年6月28日付朝刊)。
この決定に至った背景について、大統領の弟・アントニオ・キリノ判事は興味深い証言を残している。世論の反対はすでになく、むしろ反対したのはホセ・ラウレルのような、かつての対日協力者たちだったというのだ。そうした人々による反発を防ぐため、死刑囚については近い将来の釈放を見込んで、減刑の上で巣鴨へ移送という形が取られた(『読売新聞』1953年7月17日付朝刊)。
同年12月、任期の迫ったキリノ大統領は巣鴨に残る終身戦犯への特赦に署名。長年にわたった問題は、ここにようやく決着をみた(『読売新聞』1953年12月29日付朝刊)。
「歌に心が動いた大統領」は追悼記事からか
では、なぜ歌の話ばかりが注目されるようになったのか。
キリノ大統領が歌に感動したという話の紙面で確認できる最初の記述は、『読売新聞』1956年3月2日付朝刊である。死去したキリノ大統領を追悼する記事の中で、面会した教誨師・加賀尾秀忍がオルゴールで「あゝモンテンルパの夜は更けて」を聞かせたところ、「聞き入り感慨に打たれた」大統領は即日5名の日本人戦犯の釈放を命じた――というものだ。
注意すべきは、これがキリノの死後に書かれた追悼記事だという点である。当事者はすでにいない。
この話は時を経るにつれ、よりわかりやすく、よりドラマチックに変化していった。『朝日新聞』1982年6月15日付朝刊は、渡辺はま子がモンテンルパで歌ったことを取り上げ、こう記している。
加賀尾秀忍が消えた。政府交渉が消えた。賠償問題が消えた。アントニオ・キリノ判事の説得が消えた。残ったのは「渡辺はま子が歌ったことが契機となった」という、一本の因果の線だった。
美談は、こうして作られた。意図的なものではない。追悼記事が書かれ、新聞が引用し、映画がドラマ化するたびに、複雑な現実は少しずつ削ぎ落とされ、伝わりやすい「奇跡の物語」へと純化されていった。

