暗黙知のガバナンスを設計せよ

そして最も重要なのが、熟練者の暗黙知をどう扱うかについての戦略的判断である。センシング技術とAIの進化により、これまで人の頭の中にしかなかった熟練者の勘所が、モデル化されて複製可能になる時代がきた。ベテラン職人が「この音なら工具を替える」「この色なら温度を変える」と判断していた、その判断そのものを、センサーとAIで学習させ、再利用できる形に変換できるようになってきたのである。

これは日本企業の強みが根こそぎ失われる危機であると同時に、日本企業自身が暗黙知を戦略資産として体系化する好機でもある。どの暗黙知を残し、どこまでモデル化し、どのように守り抜くのか――この学習資産のガバナンス設計こそが、AI時代の知財戦略の核心となる。ところがこの論点に真剣に取り組んでいる企業は、私の見る限りごくわずかである。

地味な土台が、驚くほど軽視されている

さらに、あまり語られないが、現実世界とコンピュータ上の世界を正しく突き合わせ続ける仕組みという論点もある。同じアイテムコードが、国や工場によって異なる製品を指してしまうことがある。日本工場での「品番1234」と、東南アジア工場での「品番1234」が、微妙に違う仕様を意味している、といった具合である。QRコードのわずか1桁を人間が取り違えて手入力しただけで、その後の在庫、物流、品質管理のすべてがずれていく。フィジカルAIが機能する前提として、現実世界とデジタル世界が絶えず正しく同期し続ける仕組みが不可欠だが、この地味な土台の設計は、複数のクライアント先で驚くほど軽視されている。

スマート工場のコンベアベルトで稼働するロボットアーム
写真=iStock.com/onurdongel
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そして、工場全体を仮想空間に写し取るデジタルツインは、単に工場を美しく3次元表示するための技術ではない。人間の頭では追いきれないほど複雑になった工場を、コンピュータ上で丸ごと動かし、機械の配置換えや新製品の生産計画を、現実に手を加える前に検証できる技術である。そこから現場が学び続ける仕組みが動き始める。この「工場をまるごと写し取ったモデル」こそが、企業の中長期の経営資産になる。ロボットメーカーが変わっても、このモデルは残り続けるからである。

これらの論点はいずれも独立した問題のように見えるが、実は1つに通じている。すべては、現場が学習し続ける構造を組織に埋め込めているかどうかという、たった一点に帰結するのである。