最先端企業ですら「まだ遠い」

私が支援しているクライアント企業は、いずれもフィジカルAI導入という観点では日本の最先端に位置している。フィジカルAI研究組織を立ち上げ、ヒューマノイドや四足歩行ロボットの実証実験、無人化ライン、AI画像検査等を進めている。工場を仮想空間にそっくり再現するデジタルツインという技術に多額を投資している企業もある。デジタルツインとは、現実の工場を3次元でコンピュータ上に写し取り、そのバーチャル空間で機械を動かしたり配置換えを試したりできる仕組みのことで、現実に手を加える前にリスクを検証できる大変便利な技術である。検査モデルによっては1つあたり数十万枚を超える画像をAIに学習させている企業もある。

その最先端企業ですら、現場を学習する構造にもっていくまでにはまだ遠い、というのが率直な実感である。なぜか。学習を妨げているのは、いくつもの現実の摩擦である。

材料はロットごとに変わる。同じ品番の材料でも、湿度、温度、その日の入荷状態などによって、伸び縮みや反応が違ってくる。加工条件がわずかに変わっただけで、最終製品の品質が大きくずれる。AIによる画像検査も、光の当たり方、塗装の乗り具合、表面の凹凸、部品の向き次第で、同じ製品が全く別物のように映ってしまう。QRコードが汚れて機械で読めなくなり、担当者がやむを得ず手入力するとき、1桁を間違えれば、その瞬間から現物とコンピュータ上のデータが別物になっていく。こうした悩みは業種の違いを超え、どの最先端企業でも共通して耳にする。

熟練工の暗黙知が退職で「丸ごと持ち出される」

さらに深刻なのが、失われつつある熟練者の判断である。かつては現場の職人が図面を見て、「このままでは動かない」と直感し、図面には決して書かれない微調整をこっそり加えていた。0.02mmだけ削る。加工順序を入れ替える。組立後に部品の位置をわずかに動かす。図面という「設計者が机の上で書いた理想」を、現場で「実際に動く現物」に変えるための、この目に見えない補正こそが、日本の製造業の強さの源泉だった。

金属加工を行う工場の作業員
写真=iStock.com/kyonntra
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ところが加工機が高度化して図面通りにしか作らなくなった結果、皮肉なことに、10年前と同じ図面から同じ機械を再現できないという奇妙な事態が、多くの企業の現場で起きている。設計精度は高まったのに、動く機械が作れない。形式知の再現性は上がったが、現場知が失われたのである。

複数の現場責任者から、判で押したように同じ言葉を聞いた。「怖いのは暗黙知が他に学習されてしまうことだ」。図面や資料の持ち出しは、いまや履歴が残るので確認できる。しかし人の頭の中にある判断や勘所が、退職とともにどこへ流出したのかは、証明のしようがない。日本の製造業では、退職者が中国・韓国・台湾の企業に引き抜かれる事例が後を絶たない。

人が動けば、暗黙知がまるごと持ち出される。しかも近年は、センシング技術とAIの進化によって、中国等の競合企業が完成品を3次元スキャンし、材料が伸びる方向や壊れる箇所までシミュレーションで再現するようになってきた。従来のリバースエンジニアリングは「形だけ」の模倣にとどまっていたが、いま起きているのは、産業知能そのものの再構築である。日本企業が暗黙知を組織として学び直し、蓄積し続ける構造を持たないうちに、他国がそれを奪い去ろうとしているのである。