「親父は政治判断をまちがえた」

三木氏がそうまでして事件解明に力を注いでいった理由について、小沢氏は「政敵を倒すためだった」と見る。

「三木派は総裁選(72年7月)の決選投票で、田中の親父に票を投じて総裁就任に協力しました。その三木さんを『政敵』にしてしまったのは、実は親父の側にもまずい対応があったのです。原因は後藤田正晴さんでした」

小沢一郎前衆院議員
撮影=西田香織

74年7月、田中政権下で実施された参院選で、自民党執行部は徳島選挙区に後藤田正晴氏を擁立する。だが、徳島は三木氏のお膝元であり、三木派の城代家老といわれた久次米健太郎氏が現職だったため公認争いになった。結局、後藤田氏が公認候補となり、久次米氏は無所属で出馬する憂き目を見た。結果は久次米氏の当選に終わったが、この選挙は「三角代理戦争」と呼ばれ、田中氏と三木氏の間に禍根を残すことになる。

「田中派内でも、僕たちはものすごく反対しました。『何で、そんなに後藤田さんを推すんだ』と。親父は学歴にコンプレックスを持っていたから、東大出の後藤田さんを頼りにしていたのかもしれない。後藤田さんが有能な人であることはまちがいない。だけど、三木さんの地元に無理やり候補を立てたら、道義に反します。そりゃあ誰だって頭に来るでしょう。親父は政治判断をまちがえた。

そんなことがあったから、三木さんは『田中訴追』の方向へと突き進んだのです。しかし、三木さんも選挙の恨みつらみは政治で返すべきだったと思います。田中の親父のほうも政治力を使えば、検察の捜査を押さえることもできたと思いますが、それをやらなかった。そこがまた親父のいいところなんだよ」

最大派閥・田中派のもろい実態

ロッキード事件は、米国が仕掛けたという陰謀説も根強くある。田中氏は国内では「日本列島改造論」を強力に推し進める一方、外交では米国に先駆けて72年に日中国交正常化を成し遂げた。当時の米政府からすれば「米国離れ」の姿勢を見せた田中氏を、意図的に失脚させたという見方である。小沢氏はどう考えているのだろうか。

小沢一郎前衆院議員
撮影=西田香織

「親父が首相の時に、ソ連のチュメニ油田を共同開発しようという構想もあったから、『容共』と捉えられた可能性はあります。米国の虎の尾を踏んだという話もよくされますが、本当のところはわかりません。ただ、米国にとって親父はあまり好ましい人物ではなかったかもしれません。だから、三木さんの要請に応えたのでしょう。ロッキード事件は、やはり三木さんの意向が強く働いていると思います」

ロッキード裁判中にも、田中氏は党内最大派閥の田中派をさらに膨張させることに余念がなかった。裁判で無罪を勝ち取り、数の力を背景にもう一度、首相の座に復権するつもりでいたことはまちがいない。

「親父は、民主主義は数だという信念があったんです。だから、派閥にどんどん人を入れました。僕はちょっとやり過ぎだなと思って見ていました。若い人ならいいのですが、年輩の人たちばかり入れたんです。それで、後から田中派に入ってきた人たちと、われわれ生え抜き集団との間で軋轢が生じるようになっていったのです」