砂防会館が震えるような怒鳴り声が…

田中派内の不協和音が露見したのは85年2月、「創政会旗揚げ」の時だった。小沢氏や金丸信氏、梶山静六氏らが中心になって、竹下登氏をリーダーとする政策集団「創政会」を40人で発足させる。田中派内の勉強会の形だったが、田中氏は烈火の如く怒った。

その怒りの激しさは、田中派幹部だった渡部恒三氏が田中氏に会うために事務所に向かった時、砂防会館が震えるような怒鳴り声が聞こえてきたので、おっかなくなって逃げ帰るほどだったという(『小沢一郎 闘いの50年―半世紀の日本政治を語る』岩手日報社)。

『小沢一郎 闘いの50年―半世紀の日本政治を語る』岩手日報社
撮影=西田香織

小沢氏が当時を振り返る。

「僕は親父が辞めた時のために、後継者をつくっておかなければ派閥は持たないと考えていました。親父は後継者をつくらない主義だったから、それが逆鱗に触れてしまった。権力者は誰だってそういうものなんです。後継者をつくった途端に権力がそっちに移ってしまいますから。だけど、僕ら子飼いたちは田中の親父を潰そうなんて気はさらさらなかった。それを取り巻きたちが『造反だ』『クーデターだ』と吹聴したものだから、親父はカッカカッカしてしまったのです」

小沢氏らに担がれた形の竹下登氏は当時、自民党のニューリーダーの一人と目された人物。竹下氏は、卓越した気配りと根回しで「調整型政治家」の典型と称された。だが、意外にも田中氏の評価は低かったという。

宴席で田中氏が話した「最後の言葉」

「竹下さんは気が小さくて、強力なリーダータイプではなかったので親父からは好かれていませんでした。竹下さんはひょうきんな性格で、僕らが真剣な話をしている時でもひょうきんなことばかり言うんです。しょうがないなと思うんだけど(笑)」

小沢一郎前衆院議員
撮影=西田香織

「僕は竹下さんと親戚(小沢氏の妻と、竹下氏の実弟・亘氏の妻が姉妹)だからこんなことも言うのですが、その反面、ものすごく忍耐強い人でした。みんなの話を『なるほど、なるほど』と言いながらよく聞くものだから、敵をつくらなかった。話の中身はろくに聞いていなかったと思うんだけど、その姿勢が大事なんです。みんな『竹下さんに話を聞いてもらった』って、感謝しますからね。そういう類稀な忍耐力があったからこそ、総理にまで上り詰めることができたのです」

小沢氏が田中氏と最後に会ったのは、創政会設立からほどなくして行われた、仲直りの宴席だった。その宴会の最後に、田中氏は「愚者は語り、賢者は語らずという言葉がある。俺もこれからそれにならってやる」と話したという(前掲『小沢一郎 闘いの50年』)。その翌日、田中氏は脳梗塞で倒れた。それ以降は、長女の眞紀子氏から「竹下派に関わるやつは一切入れない」と言われ、会うことができなくなった。

田中氏は国政の表舞台に復帰することはなく、93年12月16日、肺炎のため75歳で亡くなった。田中氏の死後、小沢氏だけは訪問を許され、命日には線香を上げに行っていたという。