木製の硬い椅子に座らされている親父を見て…

ロッキード裁判が始まったのは、77年1月27日。東京地裁における第1審は、83年10月12日の判決まで6年8カ月、191回にわたって公判廷が開かれた。小沢氏はそのすべてを傍聴したという。

「被告席は木製のベンチでね、総理までやった人間が硬い椅子に座らされているのは、かわいそうで見ていられませんでした。僕が陸山会事件で強制起訴された時は、大きなふわりとしたイスだったけどね……。それは心情的なことなんですが、僕が傍聴に通い続けたのは、日本の歪められた司法制度と権力の濫用に対する怒りがあったからです。こんな目茶苦茶な裁判はないと思いながら、法廷を見つめていました」

小沢一郎前衆院議員
撮影=西田香織

田中氏は、法廷で一貫して全面否認した。

〈「陳情客が殺到している状況で檜山が来ても、いくらマスコミに“わかったの角サン”などと揶揄される私でも、それほど軽率ではない。藪から棒に『五億円用意しています』と申し込まれて『わかった』と即答するわけはない。事実そのようなことはなかった」と言い張った〉(早野透・松田喬和『田中角栄と中曽根康弘』毎日新聞出版)

だが、明らかに不公平だったのは、検察官が米国で自分たちに都合のいい証言を一方的に取ってきながら、コーチャン氏ら証人に対して、被告人である田中氏や弁護側に反論(反対尋問)する機会が一度も与えられなかったことである。小沢氏の最大の不満は、デュー・プロセス(適正手続の原則)が軽んじられたことにある。

ロッキード事件には“前段”があった

「僕は田中の親父が実際にお金をもらったかどうかという問題は別にしても、裁判が公平で適正な手続を欠いたまま進められていったことが重大な問題だと思っています。日本の政治と司法がロッキード事件で制度を踏み外したことは、大きな汚点です」

田中氏は、立花隆氏が月刊誌『文藝春秋』74年11月号に発表したレポート「田中角栄研究―その金脈と人脈」に端を発した「金脈問題」で、74年12月に退陣に追い込まれていった。田中内閣の総辞職と三木内閣の発足から、1年2カ月後に発覚したロッキード事件。「クリーン」を標榜し、汚職とは無縁な政治家として知られる三木氏が米国に疑惑の解明を直訴し、司法は異例の超法規的措置へと動いていったのである。

小沢氏はこう話す。

「ロッキード事件は事実上、首相だった三木さんが検察に捜査をやれと言ったからできたのです。米国側からの全面協力を得て、刑事免責を付与する形での嘱託尋問を許しました。三木さんの強力な後押しがなければ、検察だけでは着手できなかったはずです」