「和睦」以外の道がなかった

そして6月。元春は、もはや一か八かの決戦すら仕掛けられない状況に追い込まれていた。海の道は塞がれ、陸路の兵站も怪しくなり、頼みの援軍は同族同士の潰し合いに足を取られている。5万という数字の内実は、とっくに空洞化していたのだ。

そして、光成論文は、誰もが疑問に思う部分も検証をしている。水攻めされた高松城に「さっさと、船で助けにいけよ」と思わないだろうか。これは助けなかったのではない。できなかったのだ。光成が注目する5月23日の秀吉の書状には「明船被引取候由尤御才覚御心懸故、城内可失手と珍重候」とある。これは「空き船を拿捕したのは見事なことである。これで城内は完全に手詰まり」という意味。つまり、5万という軍勢を揃えてはいるが、船もろくに確保することができず、救援もおぼつかなくなっていたのだ。

こうして並べてみると、和睦という選択肢は、毛利氏にとって「選んだ」ものではなかったことがわかる。制海権を失い、輸送路を失い、決戦を仕掛ける力すら失っていた以上、残っていた道は最初から一つしかなかった。

秀吉が信長の死を隠して和睦を急いだ、その裏に何か企みがあったのではないか……そう勘繰りたくなる気持ちはわかる。だが史料が語るのは、もっと身も蓋もない現実だ。毛利氏は、謀略に嵌められたのではない。あがいても、講和以外の道が最初から残されていない窮地に、じわじわと追い込まれていただけなのである。

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