※本稿は、和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)の一部を再編集したものです。
いったん大坂城に戻った秀吉は…
天正12年(1584)7月6日付の秀長宛秀吉書状では、伊勢の滝川一益の動向(蟹江城を守備していたが、家康軍の攻撃に耐え切れず、開城)、北陸の動向、秀吉自身については5日に大坂城から出陣予定していたが、霍乱(消化器系の病気)で延期し、10日頃には出陣するなどと伝え、「秀吉が出陣すれば、秀長の軍勢は8月まで休養すればよろしい。ただし、秀吉が出陣するまでは美濃の池尻(岐阜県大垣市)に在陣し、境目の各城郭に軍勢を入れて連絡するように。とくに東美濃方面が心配なので、念のために尾藤知宣に指示せよ。播磨勢や木村隼人、堀尾吉晴、夫間勝兵衛にも指示するように」命令している。秀長は、播州の国衆に加え、秀吉直臣の木村隼人、堀尾吉晴、夫間勝兵衛らも麾下にしていた。
秀吉の10月17日付加藤嘉明宛朱印状によると、嘉明は大垣城の普請に携わっていたようで、場合によっては秀長から指示させると伝えており、秀長も大垣城周辺に在陣していたものと思われる。根来衆や雑賀衆など大坂城の背後が気になる秀吉は京都や大坂城など畿内に帰陣しては、また美濃、伊勢の戦場に督戦に赴くという動きを繰り返し、9月2日には和議(「惣無事の沙汰」)が持ち上がった。
信雄・家康連合軍との和議
信雄(信長の次男)・家康方から人質を出して和議の申し入れがあり、秀吉は許容しないつもりだったが、丹羽長秀から異見されて和議に傾いた。しかし、一カ条だけが調わず、7日には和議の交渉は決裂した。このため、秀吉は10月下旬、北伊勢へ出陣して信雄の本城長島城に圧力をかけ、秀長も尾張海西郡の長久保(岐阜県海津市)まで進撃するなど包囲網を縮め、信雄を実質的な降伏に追い込んだ。
こうした状況のなか秀長は、11月5日、近江の蓮華寺に対し、陣中見舞いの礼を述べたあと、長かった在陣もようやく帰陣できると伝えている。8カ月以上の長きにわたった小牧・長久手の戦いも11月15日、秀吉と信雄が参会して和議を締結した。
家康は信雄が和睦したため大義名分を失い、和議を受け入れて浜松に帰城した。信雄、家康からの人質はもちろん、両者の重臣からも人質が出されており、講和というよりもやはり降伏といえるものだったが、秀吉は旧主ということで敬意を払うことも忘れなかった。ただ、信雄は秀吉の臣下となったが、家康の臣従はすんなりとは運ばなかった。



