※本稿は、和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)の一部を再編集したものです。
織田家の覇権争い、秀吉vs.勝家
秀吉自身は北近江から伊勢にかけた広大な戦線を一手に差配し、佐和山城、長浜城へ立ち寄り、木之本へ出撃するなど席の温まる暇もなく駆けずり回っていた。木之本で決戦を挑もうとしたが、勝家軍が後退したため追撃したものの、勝家軍が玄蕃尾城(福井県敦賀市・滋賀県長浜市)をはじめとした強固な城砦群に籠城したため、勝家軍に対し2万人ほどの軍勢を配置した上で長浜城、次いで安土城に帰陣した。この間にも丹羽長秀と連携し、勝家の退路を断つべく、若狭口から敦賀へ進軍させている。
秀吉軍の備えは以下の通り。▽一番=堀秀政▽二番=柴田勝豊の軍勢(勝豊本人は病のため不在)▽三番=木村隼人佐、木下将監、堀尾吉晴▽四番=前野長康、加藤光泰、浅野長政、一柳直末▽五番=生駒甚介、黒田孝高、明石与四郎、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門尉、山内一豊、黒田甚吉▽六番=三好孫七郎(豊臣秀次)、中村孫平次▽七番=羽柴美濃守(秀長)▽八番=筒井順慶、伊藤掃部助▽九番=赤松次郎、蜂須賀家政(正勝の嫡男)▽十番=赤松弥三郎、神子田正治▽十一番=長岡(細川)忠興、高山右近▽十二番=羽柴秀勝、仙石秀久▽十三番=中川清秀。この次は秀吉の馬廻衆(親衛隊)で、先手は鉄炮衆、右備えは昵近の歴々衆(地位・身分の高い人々)、左備えは小姓衆の配置である。
万全の備えを構築したが、敵軍に動きがないことから秀吉自ら勝家軍の様子を視察したところ、敵陣にも付け入る隙がなく、また勝家軍もこちらに攻撃を仕掛ける様子もないことから作戦を練り直し、自軍の守備態勢を変更し、持久戦に備えた。
前線には秀長と、勝家の養子が
天神山砦が敵陣に突出しているため前線を同木山砦まで後退させ、柴田勝豊(編集部註:勝豊は勝家の甥で養子だが、勝家と不和になり秀吉についた)の軍勢を配置。左禰山砦には堀秀政、賤ヶ岳の尾崎砦には中川清秀、尾根続きの砦には高山右近、前線の総大将の秀長は田上山砦を守備し、賤ヶ岳の頂上にも秀長の軍勢を配置した。
蜂須賀、生駒、神子田、赤松、黒田、明石、一柳らは木之本に陣取り、丹羽長秀の軍勢は海津口・敦賀口を押さえて勝家軍を封じた。秀吉は予想通り戦線が膠着状態となったことで、忠興は丹後の領国に帰国させて海上を警固。順慶らも帰国させ、秀吉自身も長浜城に戻り、さらに安土城に移った。整理すると、秀吉陣営は、東の左禰山から西の同木山のラインで最前線を構築し、北国街道から南下する勝家軍を迎撃する配置である。

