勝家を「何たるていたらく」と嘲笑

この手紙(4月5日未刻ひつじのこく付)を受け取った秀吉は4月5日申下刻さるのげこく付で秀政に返書し、その中で「日頃から軍巧者いくさごうしゃといわれている勝家だが、秀政が一日で構築した砦さえも落とせないとは何たる為体ていたらくか。この分では天下へ切って上ることなどできないだろう。こちらは長浜城、横山城、佐和山城、さらには安土城などの名城にたくさんの軍勢を入れて守りを固めている。それに引き換え、勝家は秀政一人を相手にしても苦戦するなど情けない働きである」とし、「このようなことでは勝家が天下を夢に見ることはできないであろう」(『雑録追加』)と自信満々であった。

賤ヶ岳の戦いにおける勝家側の配置については、敗者ということもあり、不明な部分が多い。将軍足利義昭を擁している毛利軍との連携を図る勝家は、敗退の翌日(4月6日)付で毛利輝元に対し、自軍の状況を説明したあと、秀吉軍は勝家の南下を防ぐために3カ所の砦を構築して秀長や蜂須賀正勝を守備に就かせ、秀吉自身は南近江へ退いたと伝えている。秀吉をおびき出して討ち果たすので、この好機を逃さずに急いで出陣してほしい、と要請している。

しかし、秀吉は毛利との和平を確実なものとし、宇喜多氏からも援軍を得るなど(『熊野本宮大社所蔵文書』『戸川家譜』)優位に進めており、毛利氏としては両者の強弱の判断ができず、基本的には様子見に終始した。勝家が秀吉の後方を攪乱かくらんしようとしたように、秀吉も本願寺に加賀(石川県西部)で一揆を催すように要請し、また越後の上杉景勝(謙信の甥で後継者)とも結んで勝家を挟撃する作戦を展開したが、結局は賤ヶ岳の戦いそのもので勝敗は決した。

賤ヶ岳の古戦場にある武将像
写真=Hyper9/photolibrary
賤ヶ岳の古戦場にある武将像

秀吉は裏切り者を出した秀長に激怒

秀吉方の陣中では、勝家の養子でありながら秀吉に寝返った柴田勝豊の配下が謀反するという噂があり、前述のようにその軍勢の配置を変更し、秀長に対しても注意するよう促していたが、勝豊家臣の山路景勝将監(正国)が砦に火をつけ、人質の妻子も捨てて勝家の陣営に奔った。

秀吉は4月18日付で秀長のほか、中川清秀、高山右近、堀秀政に対し、注意を促していたにもかかわらず裏切り者を出したことについて厳しく糾弾した。全軍の士気にも影響したものと思われ、秀長らの失態であった。秀吉のもう一つの大きな誤算は、前述したように岐阜城の織田信孝の再度の謀反である。信孝の母、息女、家臣からも人質を徴していたため、再度の謀反はないと踏んでいた。