信長の三男・信孝が再び謀反し…
秀吉は3月晦日(30日)付で秀長に「今日中に砦の堀外の小屋を破壊せよ」「勝豊の小屋の築造に協力せよ」「堀秀政の小屋は分担して今日中に破壊せよ」「小屋の火の用心を怠るな」などと指示を与えている。堀秀政、黒田孝高、木村隼人らの名前も出ており、秀長が前線の統括者であったことが分かる。秀吉は前線は秀長に任せ、北伊勢の戦線を視察する予定だったが、再度の謀反は起こさないと高をくくっていた織田信孝(信長の三男)が岐阜城で敵対行動をしたため、北伊勢は信雄(信長の次男)に任せたまま、岐阜城攻めに進軍する。
秀吉は4月3日付で秀長に書状を認め、次のように細々と指示した。
柴田方の陣取について「おかしき仕立」と揶揄し、
「もし柴田方が、秀長かもしくは先陣に攻勢を仕掛けてくるようであれば在地へ帰陣させている五畿内の衆を招集して野戦を試みるので下々まで戦術を徹底させ、その準備をするようにせよ。柴田勝豊軍が裏切れば味方の士気が下がることはもちろん、秀長の外聞もよくないので注意するように。砦に籠って不用意に出戦しないように下々まで徹底させ、一人も出撃しないようにせよ。柴田方は緒戦の敗戦で面目を失い、このまま帰国することもできず進退窮まっているので、こちらから出撃しなければますます窮地に陥るのでこちらからは出撃するな。こちらはどっしり構えて敵軍の出方次第で対応すればよい。細かいことでも再々連絡するように。その情報をもとに軍事行動する。塩津など戦場近辺に人を派遣し、こちらの軍事行動が敵方に知られないように情報統制せよ」
と、また追伸では「些細なことでも注進するように」と指示しているが、その実、秀長からの情報を最重要視し、それによって作戦を立案しようとしており、秀長への信頼の高さが窺える。
秀吉は膠着状態となっても、勝家軍が攻撃を仕掛けてくれば要害堅固な城砦群を楯に迎撃すればいいが、勝家としては、やはり秀吉軍を打ち破って上洛し、信長の正当な後継者として信孝を据える必要があった。当然、秀吉は百も承知で悠然としていた。4月5日早朝、勝家は戦況打開のために佐久間盛政らを率いて自ら堀秀政の左禰山砦へ攻撃を仕掛けたが、堀軍の鉄炮に撃退された。秀政は秀吉への報告の中で「誠に柴田は覚えざる手遣い、下々まで物笑いに仕候」と嘲笑している。

