“楽観視”していた織田勢の侵攻

光成準治「高松城水攻め前夜の攻防と城郭・港」(『倉敷の歴史』18号、倉敷市、2008年)は、史料を精査し、その状況を追っている。これを読むと、毛利氏の「詰み」は、水攻め以外のところであらわになっていた。

光成準治は、1582年4月上旬の時点では、毛利氏が織田勢の侵攻をむしろ楽観視していたと指摘する。この段階で攻めてきているのは、しょせん羽柴軍だけだったからだ。

その余裕ぶりを物語るのが、4月9日、吉川元春・元長が山田出雲守に宛てた書状だ。「敵警固之事も船行者不相下者候条、珎儀有間敷候」。つまり「敵の水軍もこちらまで南下してきていないので、特に異変は起こらないだろう」という意味である。まるで「まだ大丈夫、様子見でいい」とでも言いたげな、拍子抜けするほど呑気な報告である。

なぜここまで余裕だったのか、理由は単純だ。この時点で、児島の東岸こそ高畠水軍の離反によって織田方に握られていたものの、村上水軍と塩飽水軍はまだ毛利方に踏みとどまっており、岡山より西の制海権は依然として毛利氏の手の中にあった。羽柴軍が陸上を侵攻しても、すぐ南の海の上ではまだこちらが優勢……元春がそう油断してしまうのも無理はない光景が広がっていたのだ。

ところが、この侵攻の数年前から既に織田勢による調略は進行していた。秀吉の侵攻によって、それは一斉に動き出す。

水軍の裏切り、失った制海権

秀吉の侵攻と共に、まず裏切ったのが、来島村上氏であった。

これは、毛利方にとって完全に想定外の一撃だったはずだ。長年瀬戸内海を仕切ってきた村上水軍の一角が、よりにもよってこのタイミングで寝返るとは考えもしなかっただろう。

もっとも、織田方の調略がすべて計画通りに進んだわけではない。それでも結果は動かなかった。来島村上に続いて、塩飽水軍までもが離反。これで備讃海峡の制海権は、完全に織田方の手に落ちてしまう。

一勇斎国芳画「赤松之城水責之図」、東京都立中央図書館所蔵
一勇斎国芳画「赤松之城水責之図」、東京都立中央図書館所蔵〔写真=ブレイズマン/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons

しかも皮肉なのは、来島以外の村上水軍や河野水軍が、まだ毛利方として残っていたことだ。残っていたからといって、頼りになったわけではない。彼らは寝返った来島村上との戦いに引きずり込まれ、身動きが取れなくなってしまったのである。海の上に味方はいる。だが、その味方は敵と殴り合うのに手いっぱいで、高松城を助ける余力などどこにもなかった。

その影響は、陸にも及んでいた。光成は、5月に松山へ出陣していた毛利輝元自身が物資不足を訴える書状を残していることに注目する。制海権を失ったことで、備中方面への物資輸送にまで支障が出ていたのではないか、というのが光成の見立てである。

海で詰み、陸の兵站まで詰み始める。4月の「異変は起こらないだろう」という余裕は、わずか1カ月ほどで完全に裏切られたことになる。