元春の本音“毎日、気が気でない”
経高は、吉川家14代当主・興経の叔父である経世の次男。元春がもっとも信を置いた重臣のひとりである。その相手に宛てて、元春は本音を漏らしている。「日々無心元計候」つまり、毎日、気が気でない、と。
天下に聞こえた猛将である。厳島で勝利をもぎ取り、山陰の尼子氏を滅ぼした歴戦の将だ。その元春が、援軍を送り込んでも城内の士気ひとつ上げられない、一か八かの決戦すら仕掛けられない、と弱音を吐いている。しかも、それを書いているのが、よりにもよって本能寺の変が起きた、まさにその日なのだ。京の異変を知る由もなく、元春はただ目の前の高松城が沈んでいく音だけを聞いていた。これはもう負け惜しみでも謙遜でもない。手も足も出ない、という以外に言葉がない。
水攻めという奇策は、城を追い込むだけの話ではなかった。心理的に殴りつける効果まであったはずだ。
大矢野栄次「『高松城水攻め』と『羽柴秀吉の経済学』」(『比較文化年報』第21輯)によれば、堤防を築く突貫工事はわずか12日間、動員された人足は5万2920人。ここに秀吉がばらまいた金額が、米7038石36升、銭にして63万5040貫文である。
当時は銀行などない。手にした現金は、その場でさっさと使うしかない。大矢野はそう指摘している。つまり、秀吉の陣の周りには仕事にありつきたい人足や、儲け話を嗅ぎつけた商人がわらわらと集まってくる。屋台が立ち、物売りの声が響き、いつの間にか陣城の周辺には即席の「町」ができあがっていたというわけだ。
当時は、内陸ではなく“海の域”
片や、沈みゆく城から「安否の一戦すら叶わぬ」と震える声で書状を送る元春。片や、堤の向こうでは景気よく銭が飛び交い、市が立ち、賑わいすら生まれている。同じ戦場に、これほど温度差のある二つの光景が同時に存在していた。心が折れるのも無理はない。
今、Googleマップで備中高松城を検索すると、城の南側にはただの平地が広がっているだけだ。だが、この景色を鵜呑みにしてはいけない。ここは江戸時代以降、干拓によって陸地に変えられた土地である。
戦国時代当時、この一帯はまだ海だった。正確に言えば、すでにかなり浅瀬化が進み、ところどころ陸続きになりかけてはいたものの、今の児島半島はまだ「児島」という名の通り、独立した島だったのだ。
つまり高松城は、地図の上では内陸の平城に見えて、実際には海と地続きの、水運で外とつながる城だったのだ。西を流れる高梁川の河口から、今は児島湾と呼ばれる一帯まで、船でそのまま抜けられるルートが存在していたということである。備中高松城での戦いとは別に、児島周辺では、制海権をめぐって争いが続いていた。

