1945年8月の終戦直後、ソ連軍は満州のほか、中国・河北地方にも進軍し、民間人を含む多くの日本人を「日本人狩り」によって拉致し、モンゴルへ連行した。抑留者はどのような環境に置かれたのか。ジャーナリストの井手裕彦さんは「モンゴル当局も認めるほど劣悪だったスフバートル収容所は、洗面所もなく、トイレは修理も新設もされず、医療の場も隔離室も洗濯場もなかった。入所者667人のうち214人が命を落とした」という――。
※本稿は、井手裕彦『モンゴル抑留』(角川新書)の一部を再編集したものです。
民間人の死亡者が軍人の倍近く
死没者一覧表によって、シベリア・モンゴル抑留の中でも最も悲惨だった抑留先の一つだと断定しても過言ではないのが、スフバートルである。
まず死亡者の所属だ。死亡者145人の内訳は、民間人が80人で55.2%を占める。軍人が42人、残り23人は「原所属部隊」が空欄で所属先がわからない。まさか民間人の死亡者が軍人の倍近くにのぼっているとは……。あり得ない事態だった。
民間人死亡者80人のうち最も多かったのは華北交通社員の40人。満鉄社員の31人が続く。華北交通社員は山海関で、満鉄社員は綏中で、ソ連軍がモンゴルに渡す捕虜の人数の穴埋めのために無差別に行った「日本人狩り」によって拉致されてきた人たちである。
死亡者の最年少は19歳の満鉄社員の千葉敏雄。最高齢はいずれも50歳の華北交通社員の長沼重輝、満鉄社員の川村文二、柴田良五郎。最年少も最高齢も両社の社員が占めていた。
後に私は、旧厚生省が作成した収容所の概要資料を入手した。陸軍大尉、町野吾郎が帰還してきた函館引揚援護局で行った報告をもとに作成されたものだ。町野は、スフバートル収容所の大隊長をウランバートル中央監獄に投獄された宮田から引き継いだ。
資料によると、収容所に入所した日本人抑留者は計667人で、うち山海関民団が200人、綏中・承徳民団が145人。半数以上が民間人という異例の収容所だったのである。

