誰も彼も汚れ放題、ほこりだらけ
この収容所を抑留者自身はどう感じていたのか。華北交通列車段の一員だった米岡隆吉は帰国後、「華交互助会」に寄せた回顧録で「地獄のスフバートル」と評している。
課せられた労働は、工場に集められた放牧のラクダと羊の毛のほこりを落とし、毛の質によって階級別に選別し、ソ連への輸出用に100キロの袋に梱包することだ。20人のチームで1日に32袋つくることがノルマとされた。
そのほか牛馬や羊の皮の塩漬けや乾燥など、米岡は「いずれもこのうえない不潔な仕事であった」としている。動物の毛にはさまざまな菌が付着。その菌から病気になった者もいる。にもかかわらず、手足を洗う水さえない。誰も彼も汚れ放題、ほこりだらけだった。
食料としてあてがわれたわずかな米と小豆、コーリャンを主食に、ジャガイモとキャベツにごく少々の肉でスープをつくり、命をつなぐ。コーリャンは精白していないのでそのまま排泄される。腹の足しにならず、口に入るものなら草でも虫でも食べた。
回帰熱について、米岡はこう記している。
「虱が大量に発生して、毎夜、暗い灯りのもとで何百匹もの虱を殺した。力が弱った者は虱をとる元気もなく、一晩中うなり続け、朝になると静かになり、死んでいった」
高熱が続き、脳の機能に影響が及ぶ人も出る。列車段の助役だった猿渡新はある日突然、荷物をリュックに詰め、「帰国することになりました」と挨拶して外に出ようとする。
皆が引き留めて寝かせたが、翌日亡くなった。列車段では同じく助役の永田鐵、社員の木谷秀治、久米俊義も回帰熱で命を落としている。
「下痢が止まらず、骨と皮だけに」
米岡自身も回帰熱にかかり、スフバートル病院に入院した。栄養失調のためか、朝起きると片方の目が見えなくなり、心配したが、数日後に治ったのでほっとしたという。
どのくらい知人が死んだのかわからず、死者に対する人間らしい感情が薄れていく。その中で米岡は入院中、隣のベッドにいた歩兵第240連隊の花岡郁郎のことは覚えている。
花岡は結婚1週間で召集され、口には出さなかったが、新妻を思っている様子がうかがえた。
「下痢が止まらず、骨と皮だけになって死んでいった」
スフバートル病院の死没者一覧表によると、花岡は29歳、死因は発疹チフスだった。
凍土になった墓地の墓穴掘りは、弱った抑留者には酷だった。1日中掘っても飯盒一杯分の土も掘れない。古タイヤを何本も持って行き、燃やして土を柔らかくして掘り進めた。米岡も夜間の墓穴掘り作業の指名を受けた。
難作業を逃れるため、名も知らない抑留仲間にパン一切れで代わってもらう。この人は翌日から寝込み、数日後には亡くなってしまった。
「何と言ったらいいのか」
米岡は言葉を失っている。
作業大隊の中で3分の1は死に、病人で動けずの作業休になった者を除くと、正規の作業ができる者は50人ほどになった。米岡が「地獄」と評したのも不思議ではない。

