モンゴルの対応が遅すぎた

ところで、死没者一覧表に記された145人だけでは作業大隊の30%にはならない。墓地区画図をみると145人以外に連番の印を変えて氏名を記していた死亡者があった。

病院の開設前にスフバートル収容所内にいたまま亡くなっていた抑留者で、51人いた。私が遺族に記録を届けた独立歩兵第24大隊伍長の藤本至や第11軍野戦貨物廠伍長の山本小太郎がこの中にいる。

死亡者は抑留者が収容所に入って1か月後の1945年11月16日から出ている。それから病院の開設まで2か月かかったのは、モンゴルの対応が遅すぎたと言わざるを得ない。

さらに墓地区画図には死没者一覧表作成後、帰還までに病院で亡くなった2人の死亡者の氏名も書き込まれていた。民間人(所属不明)の柳梅男と第5練習飛行隊の高橋行夫である。

ただし高橋はウランバートルから帰還途中に亡くなった死亡者なので、差し引かなければならない。柳のみがスフバートルの作業大隊の所属者だったと考えられる。

死没者一覧表の145人に病院開設前に亡くなった51人と柳を足し合わせれば197人になるが、これだけにとどまらない。スフバートル病院で収容しきれなくなった患者をアムラルト病院などウランバートルの医療施設へ運んでいたからだった。

私は2025年6月、スフバートルまで足を運び、現地に残っていた病院跡の建物を確認した。ウランバートルへ向かう道路沿いからコンクリート塀でさえぎられた敷地にあり、外壁が一部、崩れている。案内してくれたモンゴル赤十字社の地元支部の人によると、だいぶ前から使われていないという。

手狭な病院から見える収容の実態

平屋で面積は50~60平方メートルほど、日本のクリニックくらいの規模だ。アムラルト病院が一部3階建てで、三つの診察室や手術室と計36の病室を備え、地方の総合病院並みだったのと比べると手狭すぎる。

当時はスフバートル病院の隣に伝染病専用棟があったというが、それでも増加する患者に対応できなかったに違いない。

というわけで、私はスフバートル収容所からウランバートルへ送られた抑留者についても追跡することにした。手にとったのが、アムラルト病院の薬剤助手だった加倉井文子が帰国後、刊行した『男装の捕虜』の巻末に記した「還らぬ人六百三十五人の死亡調書」である。

終戦時、26歳だった文子は満洲国協和会熱河省喀喇沁左旗本部事務長だった夫の寛とともにソ連軍に抑留された。夫と別れられず、男装して日本人抑留者の梯団に加わる。モンゴルに入ってからはアムラルト病院で寛が事務長、文子が薬剤助手として働くことになる。

アムラルト病院はダンバダルジャー寺院の敷地内(境内)に作られた
アムラルト病院はダンバダルジャー寺院の敷地内(境内)に作られた(画像=Martin Vorel/CC-BY-SA-2.0/ Wikimedia Commons

ちなみに喀喇沁左旗の「旗」とは、清朝が蒙古族を統治するためにつくった行政制度だ。基礎的な自治体に当たり、牧地ごとに指定された。

いくつかの「旗」をまとめて上部行政機関の「盟」が置かれる。満洲国でも、内モンゴルの徳王政権でも清朝時代のこの「盟旗制度」が踏襲されていた。