入所者667人の死亡率は32.1%

帰還の際、寛は病院の許可を得て死亡者に関する記録を行李に詰めて持ち出したが、ソ連国境で没収される。文子が身につけていた死亡者台帳だけ、日本に持ち帰ることができた。

死亡者台帳の記載内容をまとめた「還らぬ人六百三十五人の死亡調書」は生年、最終所属、死因、入院日、死亡日だけでなく、入院前の収容所が記されている。貴重な記録だ。

私は、635人から入院前の収容所がスフバートル収容所だった死亡者を拾い出してみた。すると16人を見つけることができた。

それに加えて、国立中央公文書館から持ち帰った死亡診断書や死亡調書などの中にもスフバートル収容所から運ばれてきた抑留者がいないか、くまなく調べた。

ウランバートル東部のアムグロン収容所医務室の死亡調書の中に1人、元の収容所を「スフバートル収容所(宮田部隊)」と記された死亡者がいるのを見つけた。陸軍准尉の田中二郎(26歳)である。

ほかにも外蒙古死没者名簿の摘要欄に「スフバートル」と所属収容所が書かれるなどしていた死亡者が13人いたが、これは不確かな情報のため算入していない。

田中二郎までを足すと死亡者は214人になる。入所者667人からみた死亡率は32.1%と驚くべき高率だ。では残りの67.9%、453人は無事に日本に帰国できたのだろうか。そうではなかった可能性がある。

「運が悪かった」だけでは

米岡の回顧録によると、1946年夏が過ぎ、戦争でたまっていたラクダや羊の毛の選別作業に片がつくと、抑留者たちに次々と転属命令が出される。国営農場やウランバートル市内の建築現場などだが、「暁に祈る」事件の羊毛工場収容所の「吉村隊」へ行かされた者もいた。

書影
井手裕彦『モンゴル抑留』(角川新書)

こうした転属先へ移された後、スフバートル出身者がどうなったのか、米岡は、そこまでは書いていない。

ただ『華北交通株式会社社史』の「山海関勤務従事員の外蒙抑留」の項目には、スフバートルから転属後の華北交通社員について、次のように記されている。

一部の者はかの悪名高い「暁に祈る」事件の吉村隊に配属された。そのため飢餓と病気で倒れる者が続出し、山海関の抑留者のうち、ナホトカを経由し昭和22年11月15日函館に上陸したのは終戦時の約半数に過ぎなかったといわれる。

地獄の収容所に入った人は次の転属先も地獄の収容所だった……。そのことを「運が悪かった」のひと言だけでは片づけられない。

【関連記事】
異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りに…「戦利品」になった女性皇族たちがたどった悲惨な結末
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
11体のラブドールと暮らし"正しい性行為"を楽しむ…「人より人形を愛する男たち」が奇妙な生活を始めたワケ
新大阪駅から15分なのに巨大廃墟がそびえる…「消えた終着駅」が映し出す昭和のニュータウンの栄枯盛衰
元海自特殊部隊員が語る「中国が尖閣諸島に手を出せない理由」