本当の「考察」との違い
「感想」は「自分はこう思った」と「自分」に主体性を置きますが、今の「考察」は作品について、こう「も」思った、というスタンスで、責任を回避・先送りするニュアンスがあります。
そもそも論文などで「考察」という言葉が使われる時には、「問題提起」や「仮説」を「実験」などで検証して、その結果について分析する段階を指します。その後に「結論」を導くことになり、「考察」は仮説検証の1ステップだけを指します。
これがとても象徴的で、「ちゃんとした手順を踏んでるわけじゃないから反論されても困るけど、とりあえずこんなこと思いついたんですけど」という、検証や思考のライトさを強調するニュアンスが「考察」という言葉には含まれているのです。
動画投稿のタイトルに「踊ってみた」「歌ってみた」など「〜してみた」が型になるジャンルがありますが、それが即時的な考察動画では「考えてみた」という形で表出しています。
大事なのは内容ではなく目新しさ
今のブームにおける「考察」には、「あらゆる描写に意図や裏があると思い込む」という傾向があります。
犯人や作者がしたことにはすべて「わざと」か「裏の意味」がある、と思い込んでしまう。現実世界で自分の健康やお金に関わる話の中で出てきたら絶対に疑うような因果関係や論理展開であっても、新規性(目新しさ)を強調さえできれば受け入れられてしまう土壌があります。
例えば「主人公の後ろを通った車のナンバープレートの番号を足し算するとキャストの年齢になる」というようなレベルの説が「確かに!」「本当だ」と持て囃されたりします。その数字を劇中の車の持ち主が選んだのか、ストーリーには関係なく遊び心で制作陣が仕込んだのか、などの説明や解釈がないまま、点と点を強引に結んだだけで「成立」し「新しい」とされる空気があります。
これは極端な例ですが、とにかく新しければ歓迎され、「だから何なのか」説明がないまま、これとこれが成立するのではと太線で結ぶ遊びの要素が「考察」にはとても大きいです。
お祭りの掛け声のように「説」と「確かに!」が交わされている、記号的なコミュニケーションの空間になりやすい。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、無邪気な都市伝説が現実の政治や社会に悪影響を与える陰謀論に繋がっていることとも私は似ていると思います。

