※本稿は、大島育宙『なぜあなたの感想はふつうなのか』(大和書房)の一部を再編集したものです。
若者は「正解を求めている」わけではない
さて、「考察」の辞書的な意味は「物事をよく考え、調べること」ですが、今のエンタメ作品について使われる「考察」にはもっと多くの複雑なニュアンス・文脈が含まれているように思われます。
例えば近年の考察ブームでは「犯人予想」や「展開予測」の意味で「考察」が使われることが圧倒的に増えていますが、先の展開に関係のなさそうな過去の描写でも「ここに映っている物にはこんな意味・機能があるのではないか?」とか「明言されなかったが、実はこの登場人物はこの時こんなことを考えていたのではないか?」という「裏側の推測」も「考察」という単語に含まれています。
「考察」ブームについて「最近の若者は正解を求めている」という分析をよく見かけますが、私はこれは明確に違うと考えています。むしろ「正解を一つに絞らず、できるだけ多くの切り口を持つことを楽しむ」という傾向がとても強くあります。
その証拠に、例えば毎週地上波放送のミステリドラマの「考察」動画を投稿し続けるYouTuberの多くは、放送中に説をどんどん変更します。「これもあり得る」「あれもあり得る」と様々な方向性を示していかないと動画を頻繁に更新できないからです。
考察が白熱しているドラマなら、最終回を迎えるまでの3カ月の間にできるだけ毎日動画を出したいのです。次のクールに同じくらい白熱する考察ドラマが来るとは限らないので、必死に動画のネタを毎日絞り出します。
もはや「考察」は一種のスポーツに
「情報を出せば出すほどインプレッションが集まり、プレゼンス(存在感)が高まる」という今のネット時代の生存戦略としては正しい行動ですし、観ている方も「いろんな予想があって面白い」と楽しんでいます。(私自身も、考察ネタが多そうで自分も面白く観られそうなドラマには途中から参加してノリを楽しむこともあります)
「正解を求めている」という分析が生まれたのは、YouTubeのサムネイルや切り抜きで強調されたテロップ、動画のタイトルの影響だと思われます。「犯人確定」とか「すべてがわかってしまいました」などと目を惹く断言を載せて興味を集め、動画を再生させるのはYouTubeのごく普通のテクニックです。
しかし大抵の動画は、再生してみると断言はしていません。つまり、毎週の放送や連載で与えられた「ネタ」をもとにどこまで説や解釈を広げられるかという一種のスポーツになっていて、そこには「正解を求める」態度はむしろ希薄です。作品に毎週翻弄される姿を見せる、批評というよりもどちらかと言えば「ゲーム実況」に近い、と私は見ています。


