推理を外しても問題ない
「考察」が過熱して「説」が乱立すると「もうわからないから私はこの説で行きます!」と宣言するノリが生まれます。
私自身も、ミステリ系のドラマが最終回に近づくと「一応、犯人予想はこの人で行きます」と表明したりします。これ自体はミステリの醍醐味であり、とても楽しいものです。
特徴的なのは、その予想を各自が「信じている」ように表明することです。他の人は違うかもしれないし、実際のオチは違うかもしれないが、自分はこの犯人像を信じる、と言うように、「腹を括ってみせる」スタンスが珍しくありません。まるで馬券を買うように。
作品の物語自体の価値をこちらが見抜くのではなく、物語を自分ごととして抽出して引き受け、もはや物語の中身から遊離してエンジョイしているところは「推しを推している自分が好き」になれる推し活とも似ています。
数年前までは予想や推理を外すと「外しましたね」「こいつ外すから信用できない」など、心無いコメントが来ることは当たり前でしたが、最近はめっきり減りました。
責任は負わない
代わりに「外れたとしても面白い説です!」などと言われる風潮が確実に高まっています。また、大きく外したとしても、それまでの論理展開やスタンス表明がしっかりエンタメになっていれば「的中はしないけどこの人の考察は好き」と支持される場合も珍しくありません。これは「正解を求める」態度とは真逆のノリです。
「コメント欄の時代になった」こともこのブームに大きく影響しています。動画を投稿するとコメント欄に様々な説が集まり、その説にリアクションしているだけでもう1本動画が撮れてしまいます。そうして効率的に無限ループを作って「考察動画」や「考察ポスト」が量産される作品が、「考察」のフィールドでは“成功”となります。
「あんな説もある」「こんな説もある」と広げることを楽しむのが、今の「考察」のムードです。翌週にはまた要素を足して新しい説を作るので、大きな結論に責任を持つ時間はありません。批評のように仮説を立て、検証する時間もありません。「今の時点ではこう思った」とどんどん点で記録していくことが繰り返されます。

