唯一決められたのは「自分の最期」

こんな中で、長治は一度も自分で状況を動かすことができなかった。叔父の賀相が動き、家臣団が動き、周囲の情勢が動いた。長治はその都度、波に飲まれるしかなかった。

唯一、自分で決めたのは死に方だけだった。

ここで効いてくるのが冒頭でも記した辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」である。

「誰も恨まない」と詠んだ辞世の碑
撮影=プレジデントオンライン編集部
「誰も恨まない」と詠んだ辞世の碑

恨む相手ならいくらでもいたはずだ。無断で城を壊した秀吉、来なかった毛利、勝手に逃亡した村重、そして何より引きずり込んだ叔父の賀相。それでも「誰も恨まない」と書いた。何も決められなかった男が、最後の最後に一行だけ、自分の言葉を残したのだ。

別所長治の首塚
撮影=プレジデントオンライン編集部
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