“秀吉の城割り”に不満、説明不足がアダに
いくらなんでも、そこまで怒らなくても……と思うのだが、どんどんテンションは上がっていく。『別所長治記』には、「信長は謀略ばかりやるので、家来まで軽薄だ」「別所も滅ぼして秀吉に与える気だ」などという記述が続く。
ついには、中国の歴史を引き合いに「項梁は実力者であっても、大将を起用する際に人を選ばず、結果として滅びた」などとまでいい、秀吉がごとき成り上がりに従うのは、名家である別所に対する冒涜とまで言いつのるのだ(項梁は項羽の叔父。秦打倒の兵を集めて連勝するが慢心した結果、秦に逆襲され敗死した)。
これだけだと、たかが一言でキレすぎに見える。しかし2024年2月、兵庫県立歴史博物館と東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授による共同調査で、新たな事実が明らかになっている。秀吉と信長の側近とが交わした書状には、秀吉が別所方の城をいくつか破城(城割り)したことへの不満が離反の一因だったという経緯も記されていたのだ。
秀吉にしてみれば、対毛利戦を念頭に城を整理するのは戦略上当然のことである。でも、説明が決定的に不足していた。それが別所氏の怒りに火をつけた。
本来、秀吉や小一郎はそういう細かいところに気が回る性格のはずだ。となると、後に陣中で没することになる半兵衛は、この時点ですでに十分な働きができない状態にあり、秀吉の司令部が機能不全に陥っていたのではないか。
長治は“家臣団に押し切られた”か
さらに、不満を抱えていた別所氏の離反を後押しした背景には、この年の10月に荒木村重が離反し、摂津から播磨にかけての情勢がさらに複雑なものとなっていたこともあると考えられる。
長治が期待したのは、村重が有岡城で抵抗を続け、三木城も持ちこたえている間に毛利の援軍が到来することだった。ところが毛利の動きは緩慢で、上月城に進軍したはいいが、それ以上東進することなく撤退してしまった。
つまり、別所氏の離反は、かなり自分たちに有利に事が進むという希望的観測の積み重ねにすぎなかった。
こんな投機的な寝返りを主張する家臣団に、長治は押し切られたというのが正解だろう。というのも『別所長治記』を読むと、離反の過程から戦いの後半にかけて、長治が能動的に動いたり何かを決めている記述が驚くほど少ない。『別所長治記』という長治を主役とした記録であるにもかかわらず、動きまくっているのは叔父の賀相(山城守)の方なのだ。
こうしてみると、結局のところ、三木合戦とは「全員が判断を誤り続けた2年間」だった。
秀吉は正論を言いながら相手のプライドを踏み潰し、荒木村重は離反して希望を与えておきながら、城を捨てて逃亡する始末。毛利も来る来ると期待させるだけで来なかった。天才軍師だったはずの半兵衛は、すでに病に倒れ、その才能を発揮できる状態になかった。

