こじれ始めは“秀吉との打ち合わせ以降”

これに対し、信長公は「西国攻めの大将には、志が高く、武勇にも知略にも優れた羽柴筑前守(秀吉)が適任である」として、ただちに秀吉を任命した。秀吉はすぐさま出陣し、天正6年(1578年)3月4日、西国平定のために都を出発した。

ここからは、長治が信長に従うことには迷いがなかったこと。その上で、大将を寄越してくれたら先陣となると、やる気まで見せている。そこで、信長はさっそく秀吉に播磨に赴くよう命じたという流れだ。

この時点ではどこにも離反する理由がない。『別所長治記』によれば、話がこじれ始めたのは、到着した秀吉との打ち合わせ以降である。

或時、山城守・三宅治忠両人、軍評定のため秀吉の館に行きけるに、秀吉の曰く、長治、西国の案内者有る可きと宣ふに付き、信長公の代官として下向す。各の軍立ての次第、不日に敵を虜にする謀計もやある、と問はれければ、西国発向の先手、別所家に仰せ付けられる。我等存ずる旨は、今度の御合戦は、一国一城の小ぜり合ひとは、各別也。輝元は大身なり。万死一生の合戦、五度も十度もなくては叶ふまじきか。御手間とられ候はんと存ずる。

(中略)

「侯」と、云々。秀吉聞き給ひ、さやうに延び延びの手立ては、対様の人数にては然る可くもあらん「が」、彼は大勢、此方は小勢なり。賢人の前に小人久しく居ては、其の恥を顕はすといへ。かやうの軍には責めかゝりて、五度も三度も強き働きをして、敵に臆病神を付けねば、急に勝利を得る事難し、と宣ふ時、治忠重ねて、強き働き計りにて、落着の勝ちは成り難る。

筆者訳:

ある時、山城守と三宅治忠の両名が、軍評定(作戦会議)のために秀吉の館へ赴いた。秀吉は、「長治殿には西国への案内役を務めてもらうことになっている。私は信長公の代官として(播磨へ)下向した。皆々の軍勢の配置や、近いうちに敵を捕らえるための計略はどのようなものか」と尋ねた。

これに対し(別所側は)、「西国攻略の先陣は、別所家に仰せ付けられております。我々が考えるに、今度の合戦は一国一城の小競り合いとはわけが違います。毛利輝元は大勢力です。死を覚悟した激しい合戦を五度も十度も繰り返さなければ、勝利は叶わないでしょう。(慎重に構えなければ)手間取ることになると存じます」と答えた。

(中略)

秀吉はこれを聞くと、「そのように先延ばしにするような戦術は、相手側の人数(毛利軍)と対等であればよいかもしれないが、敵は大勢であり、こちらは小勢である。(そんな状況で)賢者の前に小人が長く居座れば、結局は自分の恥をさらすことになる。このような軍戦においては、攻めかかって五度も十度も猛烈な働きを見せ、敵に臆病神を植え付けなければ、ただちに勝利を得ることは難しい」と宣した。

これに対して、治忠が重ねて「強引な働きばかりでは、腰を据えた(確実な)勝利を得ることは難しい」と反論した。

重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵
重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons