全員が農業初心者、5ヘクタールからの挑戦

年明けの2024年1月。安藤の主導で、知り合いを辿りながら借地探しが始まった。だが、外から来た者への警戒は強い。水の来ない“外れ”の田んぼをつかまされることもあった。農家探しはさらに難航した。直接契約に応じる農家はなかなか現れない。

「だったら、まずは自分たちで結果を出すしかない」

2024年6月。ようやく確保した5ヘクタールの借地で、「あきたこまち」を用いた最初の自社栽培が始まった。作業スタッフは、日本人1人とタイ人2人。則竹を含め、全員が農業の素人だった。

まず取り組んだのは、田んぼのインフラ整備だ。泥にまみれながら水路を掘り直し、ポンプを組み替える。雨が続けば雑草が伸び、暑さと湿気で虫や病気が広がる。年末年始も作業は続いた。

結果は散々。収量も品質も、周囲のタイ人農家に及ばない。自分たちが農業の現実をほとんど理解していなかったことを思い知らされた。

同年8月。生産拠点を集約するため、パトゥムタニーの精米工場を閉じ、チェンライへ移した。もう、後戻りはできなかった。

転機となった“4軒の成功”

2作目の準備が進むなか、4軒の農家が「一緒にやってもいい」と直接契約に名乗りを上げた。そのひとりが、40代のソムチャイだ。タイ農業の先行きに危機感を抱き、独自に肥料や作付けを工夫してきた農家だった。

2024年12月。40ヘクタールの借地で、4軒の農家は長年の“勘”をいったん脇に置き、則竹チームと設計を共有しながら手を動かした。作業は目に見えて効率化していく。

半年後。4軒すべての田で、黄金色の穂が重く垂れていた。この試験栽培で、収穫量は従来のタイ米を上回り、単価も上昇。農家の収入は30〜50%増え、品質と食味も、市場で十分に通用する水準に達していた。

周囲の農家は、その田んぼを食い入るように見つめた。そして、噂が瞬く間に広がった。

「ノリタケのやり方、効くらしいぞ!」

4軒の成功をきっかけに、「俺も参加したい」という声が次々と上がった。日本式の農技法に感銘を受けたソムチャイは、技術面の要として、則竹チームと農家をつなぐ存在になっていった。

2025年5月、3作目。新しい村で開かれた農家ミーティングには、約110ヘクタール分の申し込みが集まる。協議の末、契約は80ヘクタールで固まった。

歯車が噛み合い始めた。そう、見えた。

村単位で農家を集め、年2〜4回のミーティングを実施。100以上のエリアに広がる取り組み
写真提供=則竹さん
村単位で農家を集め、年2〜4回のミーティングを実施。100以上のエリアに広がる取り組み

作付面積は“東京ドーム32個分”に到達

その日、則竹のもとに一本の電話が入った。相手は、80ヘクタールの契約をまとめていた村長だった。

「今回の契約は、なかったことにしてほしい」

表向きの理由は、「日本企業は信用できないから」だった。だが後に、農家を束ねる仲介人が別の精米業者とも交渉を進めていたことが判明した。農家はより条件の良いほうへ、一斉に流れていたのだ。

怒りは湧かなかった。これが、この国の農業の現実だった。

この出来事を機に、方針を改めた。ひとつの地域に依存しない。仲介人を介さずに、農家と直接向き合う。急ぎ拠点を探すなかで、日本米プロジェクトを率いた経験を持つ農家グループのリーダーと出会った。構想を聞いたその人物は、短く言った。

「やってみよう」

数日後、65ヘクタールの農地が用意されていた。そこを起点に、6つの村を回り、農家ミーティングを重ねていった。農家の関心は一つだけだった。本当に儲かるのか。その問いに、数字で応えた。若いタイ人スタッフが農家を一軒ずつ回り、想定収量、買取価格、手元に残る額まで示した。

最初は数人だった参加者は、口コミで40人規模へと増えていく。そして4作目。作付面積は、150ヘクタールに達していた。