残ったのは幼すぎる実子

秀吉の晩年には、養子として迎えた男子のうち、生存しているのは小早川秀秋だけになっていた。その秀秋も、豊臣秀頼に後を継がせるには邪魔な存在だったゆえ、小早川家に養子として出されていた。

秀吉の後継として関白となっていた豊臣秀次には、もっと過酷な運命が待ち受けていた。

写真=『太平記英勇伝』の豊臣秀次。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
写真=『太平記英勇伝』の豊臣秀次。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

文禄4(1595)年、降って湧いたように謀反の疑いが持ち上がり、関白職を剥奪されたうえに切腹。秀吉はそれでも足らず、秀次の妻・妾・子の処刑を命じた。京の三条河原で斬首された者は、総計39人に及んだ。

そのなかに、出羽国(山形県)の最上義光もがみよしあきの娘・駒姫がいた。秀次の側室候補として上洛すると、夫となる相手に謀反の疑いがかかっていた。晴天の霹靂へきれきだった。もちろん駒姫は何ら関わっていない。秀次と対面さえしていない。それなのに、連座の罪で処刑された。まだ15歳だった。

残ったのは実子・豊臣秀頼。秀頼は秀吉の死の1年前に元服を済ませたが、まだ幼かった。さらに豊臣恩顧の大名たちが内部分裂し、関ヶ原の戦いを前に次々と徳川家康になびいていった。秀頼はこの百戦錬磨の家康と戦わざるを得なくなり、豊臣は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で滅亡するのである。

栄華の速さが、後継者問題を歪ませた

秀吉・秀長の血を引いていない、養子・養女ばかりの「豊臣家の子」たちがいずれも早い死を迎えたのは、客観的に見れば偶然に過ぎない。しかし、秀吉の栄華があまりに急速に築かれていったため、後継者が育たぬうちに、次々と踏み台にされていったように見えてしまう。

急激な拡大路線と飛躍に伴い、後継者問題に歪みが生じた――どうしても、そう思えてしまう。

豊臣には、「家」を永続的に後世につなぐという、武家的な着想が薄かったのではないだろうか。それはすなわち、秀吉の出自が武家ではなかったことに起因しているかのようだ。

秀吉の懐刀で、政権No.2の秀長は、その歪みを修正できなかったことを心残りに逝ったのかもしれない。

参考図書
・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書 677(KADOKAWA、2025年)

【関連記事】
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
「お母さん、ヒグマが私を食べている!」と電話で実況…人を襲わない熊が19歳女性をむさぼり食った恐ろしい理由
謝罪も、論破もいらない…金銭を要求してくるカスハラ客を一発で黙らせる"ひらがな二文字の切り返し"【2025年8月BEST】
大地震でまず確保すべきは水でも食料でもない…被災者が「これだけは担いで逃げて」という最も重要なモノ2選【2025年7月BEST】
11体のラブドールと暮らし"正しい性行為"を楽しむ…「人より人形を愛する男たち」が奇妙な生活を始めたワケ