NHK大河「豊臣兄弟!」では、羽柴秀長の嫡男・与一郎が登場した。だがその与一郎はわずか6年後に夭逝し、その後も養子たちは次々と命を落とした。なぜ豊臣家は後継者を失い続け、「秀吉の天下」を守れなかったのか。15代続いた徳川家との明暗を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
豊臣秀吉像
重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

与一郎は秀長の「本当の子」

羽柴与一郎――羽柴秀長の嫡男が、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場した。この少年が、今後の「豊臣兄弟!」のキーマンの1人になるのではないかと考えている。豊臣の後継者問題を考えるうえで重要な人物だからだ。

「豊臣兄弟!」では、与一郎は秀長の妻・ちかと、慶の前夫のあいだに生まれた男児という設定だった。前夫亡きあと、前夫の両親と慶に深刻な問題が発生し、与一郎と離ればなれに暮らしていかざるを得なかったのを、秀長が引き取って養子にするというストーリーだった。

だが、これは演出上のフィクションで、与一郎は秀長の実子だったといわれる。母は秀長の正室で、秀長没後に「慈雲院じうんいん」の法号を名乗った女性――この人が慶のモデルである。

「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史家の黒田基樹氏は、与一郎が秀長の実の子であるのは、以下の複数の文献史料から、ほぼ間違いないと述べている。

1.森忠政もりただまさ(信長の家臣・森可成よしなりの子。のちの美作・津山藩主)の後妻に「岩」という名の女性がおり、岩がそもそもは「木下美濃守(秀長)息与一郎の室なり」(与一郎の妻だった)と記されていること(『森家先代実録』)。

2.「羽柴美濃守秀長公大和・泉州・紀州三か国の大主として播州姫路より郡山へ御所替え、御実子早世に付き」(『高山公実録』)

秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)を与えられた天正13(1585)年の時点で「御実子」がすでに死去しており、その実子が与一郎と見られること。

(上記2点、『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』KADOKAWAより、以下黒田)

『高山公実録』が「早世」と記している通り、与一郎は天正10(1582)年には亡くなったと考えられる。本能寺の変が勃発した年だ。「豊臣兄弟!」で与一郎が登場した放送回は天正4(1576)年頃を描いていたので、つまり、6年後には没してしまうのだ。

秀長は兄の秀吉同様、子に恵まれなかった。与一郎の夭逝は、それを象徴している。そして、これが秀長個人の懸案にとどまらず、豊臣の後継者問題にまで暗い影を落とすことになる。