戦国の姫に、平穏な晩年はなかった
小早川秀秋は最盛期、筑前・筑後に59万石を領する大名ではあったが、その前半生は豊臣の後継者問題に振り回されたといってよい。そして慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い――このときの動向と、翌々年の早すぎる死は、ご存知の通りである。
秀吉には養女もいた。こちらも見逃せない。
[豪]
5月17日放送回に赤ん坊で登場した前田利家の四女で、乱世に翻弄された戦国の姫。天正9(1581)年までに、羽柴家に養女として迎えられた。羽柴と前田をつなぐ重要な娘だった。
同15〜16(1587〜1588)年、宇喜多秀家に嫁いだ。14〜15歳のときだ。
運命が暗転するのは、関ヶ原の戦いだった。夫の秀家は西軍に属したため戦後に改易され、八丈島に流罪となった。
一方の豪は、実家の前田氏の拠点・金沢に住み、キリシタンの洗礼を受けたという。
離島で苦しい生活を送る秀家を、豪は仕送りなどで支援したと伝わる。秀家は84歳で八丈島、豪は61歳で、金沢で逝った。再会することはかなわなかったが、現在も八丈島には秀家と豪が並ぶ像が立ち、深い愛情で結ばれた2人の姿を残している。
[小姫]
織田信雄(信長次男)の娘。奈良・興福寺の塔頭・多聞院に残る『多聞院日記』には、「関白殿(秀吉)の養子にて二、三才の時より御育て也」とある。天正18(1590)年、5歳で徳川秀忠に輿入れしたが、1年後に早世した。
信長の孫にあたる豊臣の養女が、徳川と結びつくという重要な縁組は、わずか1年で破綻したのだった。
徳川家と明暗を分けた「家」の観念
若年での死亡率が今より格段に高かった戦国時代にあって、これだけ早世が多いのは決して珍しくはない。だが、事が豊臣という「家」に関わってくると、この悲劇の連鎖が特別に思えてくる。
「呪われている」とでもいおうか――いや、「呪い」は大げさとしても、豊臣の養子戦略は次々と頓挫し、後継者選びが迷走。次第に袋小路にはまっていった印象を持つ。
推測に過ぎないが、前述の豊臣秀保の死による羽柴大和家の断絶などという事態が、もし、徳川の身に起きたら、家康は嫡男以外の自分の子、または一族の子を養子として入れ、必死に家の維持をはかったのではなかろうか。
歴史の上では、家康は秀吉の失敗から多くを学び、のちの徳川の治世に活かしたというのが通説だ。実際に家康は、宗家に男子が誕生しなかったときは、分家(紀州家・尾張家)から将軍を抜擢する体制を整えた。これなどは、簡単に弟・秀長の家を断絶してしまった秀吉を反面教師とした策だったと、いえなくもない。
家康は秀吉の生前から、安易に身内を粛清したりする秀吉の自己中心的な手腕に危機意識を持っていたのではないか――そう考えても不思議ではないほど、秀吉は家の存続に関わる問題には傍若無人で、やりたい放題だったのである。
ここに、秀吉と家康の違いがあったように思える。
